2017年09月05日

◆「日本の最北端」って稚内!?何と"北方領土"択捉島!!…嘆かわしいお粗末"廃棄"顛末…《追記》気になる4地区の緯度は?弁天島(稚内市)も

下記の「毎日新聞」記事によると
★<北海道>パンフに宗谷地方「日本最北端」 5000部廃棄***goo ニュース9/5 12:50
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/politics/mainichi-20170905k0000e040259000c.html
★北海道:パンフに宗谷地方「日本最北端」 5000部廃棄***毎日新聞2017年9月5日 12時50分
https://mainichi.jp/articles/20170905/k00/00e/040/259000c
●宗谷岬は北緯45度31分
●択捉島(えとろふとう)最北端のカモイワッカ岬の北緯45度33分

終戦(昭和20年8月15日)後のソ連軍上陸(同9月)によって、
父母と姉(昭和19年1月生まれ)とは、後に"北方領土"と呼ばれることとなった
歯舞諸島(はぼまい)の多楽島(たらく)を脱出(夜陰に乗じて島から逃げて来た)。

こんな私でさえ、「日本最北端」は何処?となると、
稚内市?それとも礼文島(れぶん)?のどっちだろう??
旅行で簡単には行けない"北方領土"が浮かばないのが普通でしょう。
ロシアが実効支配し、多くの人が住み、軍事基地もあるのだから
「日本最北端」で"北方領土"のことがよぎる人は極めて少ないだろう。

今回の新聞記事で明るみに出たチョンボの大きな問題点は
北海道庁の宗谷振興局が作成した「ロシア向けの観光パンフレット」だったことだ。
"北方領土問題"の現地総本山が北海道庁だというのに……
この「ロシア向けの観光パンフレット」の作成に当たっては
担当者から決裁権者(最終判断者)までかなりの職員が関わっていたのに……
 (もちろん日本語の元版原稿で、"外国"となると総務も合議先か)
 (私の想像だと会計を除いて20名がタッチ、中国版含め通算延べ人員40名が…)
"北方領土"を想起して疑義を申し立てる職員が一人も居なかったとは!?!?
あれだけの大所帯で色んなセクションがあるのだから、
"北方領土問題"への意識が薄い又は皆無の職員が多くても不思議ではないが、
あまりにも情けない今回の"5000部廃棄"という顛末。
「昨年作製した中国語版も同じ内容で、5000部すべてを道内を訪れた中国人観光客らに配布した。」
これが記事のラスト。嘆かわしい……

パンフレット作成は外注していると思うが、ページ数は判らないけど、
ブロの撮った多数の写真、ロシア語翻訳など経費はかなり高くついたはず。
数百万円が飛んでいった……
 (昨年の中国語版が元だから今年の分はかなり安く済む)
ただ中国関係者に配付した中国語版は「日本最北端」表示のまま残っている。

「日本最北端」を地図で確認すると
稚内1.JPG
稚内2.JPG
※北方領土からの引揚者を両親(死亡)に持つ私だって、「日本最北端」は知らなかったから、
出先の振興局で国際関係に関連する案件がある場合には、本庁も絡む仕組みが必要なのかも…
今回はたまたま緯度の問題だったけども…国境など歴史問題は全国各地で表現も微妙…

↓北方領土の位置図は↓
★根室って、北方領土って何処にあるの??&子ども時代の意識(「北方領土・多楽島」の補足記事1)**2016年04月05日
http://yumenoya.seesaa.net/article/436241752.html
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《追記》4地区の経度は?
◆Googleマップで緯度・経度を求める(少々の誤差は無視)
https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/sphere/coordinates/
太字はウィキペディアWikipediaに掲載の緯度
★礼文島の北にある小島(海驢島(とどじま、とどしま)/海驢島灯台が存在)
緯度:北緯45°28′52″
ウィキペディア(海驢島)では北緯45度28分37秒
★稚内市宗谷岬
緯度:北緯45°31′25″
ウィキペディア(宗谷岬)では北緯45度31分21秒
★択捉島カモイワッカ岬
緯度:北緯45°32′54″
ウィキペディア(択捉島)では北緯45度33分28秒
★弁天島 (稚内市)
緯度:北緯45°31′35″
ウィキペディア(弁天島 (稚内市))では北緯45度31分35秒

北海道という大きな島の最北端は「宗谷岬」
人の住んでいない離れ小島を入れると統治している最北端は「弁天島」となるようだ。
礼文島.JPG
稚内市.JPG
択捉島.JPG
稚内 弁天島.JPG

なお、「外務省: 北方領土問題に関するQ&A(関連質問)」によると
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/topic.html
「1. 南樺太(=北緯50度以南)及び千島列島(=ウルップ島以北の島々)については、その領域主権を有していた日本は、1951年のサンフランシスコ平和条約(注)(第2条(c))により、すべての権利、権原及び請求権を放棄しました。サンフランシスコ平和条約上、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられることとなっており、それまでは、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定であるというのが従来からの日本の一貫した立場です。
(注)ソ連・ロシアは締約国ではない。」
遠い遠い未来に南樺太が戻ったら、日本の最北端は北緯50度ということも…
posted by yumenoya at 19:37| Comment(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月11日

◎昭和4年(1929)根室町住宅地図(画像鮮明で拡大により官公庁、商店、氏名などが確認し易い)根室市

戦前の根室の地図(住宅/住居)を捜していたら下記サイトがヒット
★所蔵地図データベース-時代統合情報システム
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/
サイト内検索の使い方が不明だったので、
「地域別」を「北海道」に変えたら旧い明治から表示された。
北海道の中に根室関連が2点あり、2点目が捜していた下記住宅地図だった。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002409613_o.html
《その概要》
◆地図番号:002409613 ◆形態:版本・多色
◆資料名:根室市街圖 ◆読み:ネムロシガイズ
◆題箋・内題など:(内題)根室市街圖 ◆大きさ:55*78
◆内容年代(和暦):昭和4 ◆作成主体又は絵師:
◆内容年代(西暦):1929 ◆版本者:交信社(札幌、發行所)、福田泉秋(札幌、發行人)、清田印刷所(帯廣、印刷所)
◆成立年代(和暦):昭和4 ◆旧蔵:不明
◆成立年代(西暦):1929 ◆現所蔵:国際日本文化研究センター
◆地域:北海道 ◆現所蔵番号:YG/7/GC7/Ne、002409613
備考
・折りたたみ20cm
・昭和4年11月1日印刷 昭和4年11月5日發行
・資料課の袋には「1929.5」とあり
・裏に沿革などあり

昨年2016にネットで見つかった地図は次の2点のみで、
これらは大変重宝したが文字はイマイチ不鮮明…
★根室懐かしふぁおとぐらふ-根室トピックス
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3922/111.natsukashi.mokuji.html
●パート121 昭和5年 根室町住宅地図 (モノクロ)
●パート122 昭和11年 根室町住宅地図 (モノクロ)

今回見つかった地図は、この「昭和5年 根室町住宅地図」の元と思われる繰り返しコピー以前のものなので、カラーで文字が鮮明だから左クリックで何度拡大しても文字の確認がし易い。
更に地図の裏には、根室町の沿革や広告と思われる官公庁や商店の一覧が掲載されている。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002409613_u.html

「昭和11年 根室町住宅地図」の元になった鮮明な地図は何処かにないものかねぇー
ついでに昭和20〜30年代の住宅地図が欲しいのだが…
根室の図書館か市役所にはあるのかな!?

昭和20〜30年代の住宅地図だったら、私の育った街並みの記憶とリンクするのだろうが、
昭和20年の根室空襲前の地図で位置が今も一致するのは学校、官公庁、寺社ぐらいだ
何たって戦前の地図には戦後生まれには当たり前の鳴海公園が無い
posted by yumenoya at 03:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

★第二子を生むため母の実家・長野を目指し秋田辺り(日本海)へ船で決死行!?1945年(北方領土・多楽島-4)

1945年9/30に母たち(長女・母の養母)が多楽島を脱出して根室に来た時、
汐見町にあった父の兄宅(父が多楽島に婿入りした頃に根室へ??)を頼ったらしい。
ただ7/14・15の米軍による根室空襲で根室の8割が焼け野原で、
空襲で亡くなった人も多いし、焼け出された人がたくさんいた。
(鳴海町にあった中田先生の祖父の家も横田船頭さんの家も消失)
頼った汐見町の家は空襲の被害は無かったけれど、
当時の住宅事情はかなり悪いし、母たちがいったいどの部屋で暮らしたのかは不明。

《ソ連軍上陸後に北方領土の島を脱出し逃げて来た人たちにとって当時の根室は?》
7月にあった根室空襲の状況を知って置く必要があるので、ネットで確認。
●【7月14日・15日北海道空襲の日】pdf
http://okapi-net.com/setsuwa/_userdata/0714.pdf
「<根室>
根室市への攻撃は道内でも激しく、根室空襲研究会の調査では市街地の70%が焼け野原と化し、210人が死亡した。7月14日午前5時15分に始まった根室空襲は当初、根室湾の船舶が標的だったとされる。根室は北方への物資供給拠点。確実に戦力を奪うための攻撃とみられ、市街地への爆撃はほとんどなかった。しかし、翌15日、状況は一変した。午前5時8分に空襲警報があり、米軍機7機が市街地に飛来。3時間後には40機以上の大編隊が500ボンド爆弾やロケット弾を撃ち込み、市民は激しい機銃掃射にさらされた。」
(★死者数は他と異なるが、当時の空襲状況について一番詳しい。)
(軍事関連施設の無い(?)根室の市街地を狙った7/15空襲は無差別爆撃です)
(公開されている米国の公文書が気になりますけど、何が書かれているのか!?軍事的には7/14の根室沖停泊の2隻以外に何の意味も無い根室空襲だったのでは…!?色んな記事を読んだので、何処に書いてあったのかも定かでないが、別のところを爆撃する予定が変更となり、積んだ爆弾は落として軽くして帰還しようぜとなったとしか私には思えない。そんな物量投入のできるアメリカ……、その頃アメリカにあったのは九州上陸作戦で、北海道と仙台からの支援を絶つ目的という記事もどこかで読んだ記憶も…真相は知らないが唐突と思える二日目の根室空襲、千島列島南下をうながすソ連軍への支援なのか?)

●北海道空襲データベース(根室市)
http://kuusyuu.way-nifty.com/blog/2011/09/post-5989.html
「【根室空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間305、船員45、軍人23
 氏名不明・・・民間  1、船員 0、軍人18」

●北海道空襲-ウィキペディアWikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%A9%BA%E8%A5%B2
「根室空襲(根室市街地 焼失倒壊家屋2,457戸、死者369人)」

●空襲後の根室(焦土の画像)
Nemuro_after_the_1945_air_raid.JPG
(↑左クリックで拡大)
(国書刊行会「写真集明治大正昭和 根室」より(らしい))

連載記事の北方領土・多楽島-1で触れたと思いますが、
戦後生まれの私にとって当たり前だった「鳴海公園」が地図に無いのは驚きでした。
●昭和11年 根室町住宅地図-根室トピックス
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3922/s11nen.jpg
地図上で左クリックすると拡大できます。
この住宅地図の8割が根室空襲で消失し、鳴海町住宅街の跡地に後に「鳴海公園」ができたことが実感できます。


前回取り上げたお膳セットを調べていた頃に、
父母の歴史年表作りとエピソード集めを始めていたので、
私が電話で姉に色々訊くながら、縦軸は年月日、横軸には重要人物を置き、
エクセルの表をエピソードなどで埋める作業をコツコツとやっています。

姉の「ヒデカズは長野で生まれたんだよ、知ってた??」から、今回分の推理と調査は始まった。
兄の誕生は昭和21年5月4日で、今の長野県上田市です。(今年70歳になりました)
(小さな姉は昭和19年1月生まれで、当時を知る情報は姉の母聞きの記憶のみ)
(兄にも確認したが、姉以上の情報は無かった)

《★姉が母から聞いた話★》
祖父から「米ならあるから長野に来い」と連絡があった。
父母私の三人が横田船頭さんの船で根室を発ち、
津軽海峡を横切って秋田?辺りに船が着いた。
大荒れの海に母は死も覚悟して
私によそ行き用のきれいなおべべ(着物)を着せたと。

(姉に確認するが「凍えそうな寒さ」的な発言は無かったから冬説は薄いか?)
(母は内陸育ちで多楽島と根室間の船しか知らなかったから、
太平洋海原の長い航海は初めてで、荒れた海に驚き震えたのでしょう)
「秋田から国鉄列車の乗車予定を(電報で)連絡してあったので、
祖父は今日は着くかと最寄りの駅に何度も迎えに通っていたらしい。」


《●推理1●》
「秋田?辺り」と聞いた時には、何故八戸(太平洋側)とかでないのと感じましたが、
調べると青函連絡船は7月の北海道空襲で壊滅しており、国鉄も寸断か?
(中田先生によると、学徒勤労動員で落石(おちいし)で作業していたが、
空襲を知って木炭自動車で根室に向かったけれど
途中の橋が落ちていて大変だったと)
もし汽車で函館に行けたとしても、それから渡る船を探すのは難しそうだ。
調べると7月10日には仙台空襲があったので意識的に避けて日本海へ…
東京大空襲があったから東京へ着いたとしても長野は遠そうだ…
東北の日本海側を目指したのは横田船頭さんの賢明な判断か!?

《●推理2●》
冬には流氷に閉ざされる根室港
お腹に子がいるのに春になってから秋田?辺りを目指すのは無謀だ。
すると昭和20年秋か遅くとも寒さが厳しくなる前の冬に決行か?
(船は花咲港に係留としたら?)
流氷の無い花咲湾を発ったとすると冬に決行の可能性は残るが時期の特定は中断。


私は船・海などの知識が皆無なので、3/10(木)中田先生に電話して助力を乞う。
中田先生の色丹の実家は何隻も船を持つ漁師だったので船事情などに詳しい。
《●中田先生のお知恵を拝借》
・昔、船頭は経験と実力のある者しか取得できなかった。
・秋田へ向かったとすると20〜30トンクラスの船だったと思う。
・海岸沿いに進めて、積める燃料量に限りがあるから、
途中で燃料の補給をしながら泊って、3日か4日はかかったのではないか。
・船頭さんは流氷の冬には花咲湾(太平洋側)に係留していたと思う。
・その当時に街から花咲港へ向かうとしたら歩きか馬車しかない。

ど素人の私にはイメージできない20トン船??
ネットで調べると次の記事がありました。
「目安として全長で15〜20mくらい、幅が4〜5mくらいのことが多いような感じがします」(Q&Aサイトから
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422970054

中田先生に電話した時に、他に乗客は居なかったのかいと訊かれ、
父、母、姉の三人だけですと応えました。
けど当時の根室は空襲でかなりの家屋が焼失しており、
島から脱出者には頼る家屋の無い人が多かったと…
本州の実家へ行きたいという需要はかなりあったと思うし、
船の燃料は高い(?)だろうし、入手も難しかっただろうと考えると、
他の家族と一緒に乗船する方が自然ではないかと思い、
姉に再確認したが、同乗者の話を母から聞いたことは無いと。
可能性は残るが、もし同乗者が居たのなら、
母ならば連絡先ぐらいは交換しているはず。
でもそんな話題は後にも出ていないようなので推理は断念。


この推理を中断したまま、後に姉に聞いた話だが「産後三週間」という言葉
(独身の私には初の言葉だが、検索したら色々ありました。大事な三週間と)
聡美と晃行(私の姪と甥)の誕生の時には、母が帯広へ来てくれたと…
(この時には当然のように残された私が炊事係をやっていました)

「産後三週間」を知ったので
《●推理3●》
島脱出後に、身籠っていることを自覚した母は早い時期に、
長野の祖父に手紙(電報?)を書いて助けを求めたのではないか!?
10/30に父が島を脱出し、島には簡単に戻れそうにない事が判明。
お腹に子どもがいる、でもこの義兄の家での出産は心細い、
食べ物の不安などの無い、環境の落ち着いた長野で産みたいと。
寒くなる前にと横田船頭さんに話を持ち込み相談したのではないか?
お腹が大きくなってからでは海上で流産の恐れがある。
ということで、11月中か12月初めに決行、で推理は終了です。
「米ならあるから長野に来い」が一番の原動力だったと…
(終戦後の食料事情と言えば、足りない配給と農村への買い出し(物々交換)、
そして闇食料の取り締まりというイメージですから、
戦後生まれの私には想像できない食料不安の状況だったのでしょう)


《根室空襲後の新築事情/「ヤマレン」店舗住宅倉庫が空襲で消失》
亡くなった父が根室でやっと定職に就き(時期は不明だが昭和26年頃か??)、
退職までお世話になった「ヤマレン」の山本連治郎社長に父の事を照会しておりましたが、
先日『創業100周年記念誌 蒼天遥か 株式会社ヤマレン』を送っていただきました。
この記念誌の中の貴重な「回顧録1」(亡き先代社長・山本連一様取りまとめ)によりますと、
「戦災直後でまだ資材の統制は解除されない中での建築は大変であったが、大工に工賃として食料を支給する等苦労して最初の建築物(住宅)を建てる事が出来、創立者の一家がぎりぎりの12月31日に入居する事が出来、新居で昭和21年を迎える事が出来たわけである。」
大正2年(1913年)から根室で商売をされていたヤマレンさんでも、
「大工に工賃として食料を支給する等苦労」と記してますから、
当時の食料事情は想像を超えたものだったようです。
こんな食料状況の根室で、島を脱出後に義兄宅に間借りしていた母たちに少しの貯金があったとしても食料入手にはあまり意味がなく、出産に大きな不安を感じた母は長野行きを決断したのだろうと思います。


★あくまで想像ですが、横田船頭さんは各地に居るであろう船頭さん仲間を頼って、
電報などを利用して燃料や食事の事前確保などを図ってから実行に移したと…
燃料が貴重な時代に、行き帰り往復分の燃料を各地に事前に確保するのは大変なことだったろうと思います。
母の立場だと、死も覚悟の決死行に感じたかもしれませんが、
船頭さんにとっては、緻密な用意周到の上での実践だったのでしょう。

●決死行?の海路想像地図
根室-秋田1.jpg
(↑左クリックで2段拡大)

横田の船頭さんについては、父母も「船頭さん」と呼んでいたので、
たまに訪れて父と酒を酌み交わす時に、子どもの私も船頭さんと呼んでいましたし、
船頭さんの家には結構遊びに行って、おばさんには可愛がってもらった記憶があります。
その当時は、多楽島を脱出した時の船頭さんという意識しかありませんでしたが、
第二子(兄貴)出産の恩人であり、今の私が居るのも、
母たちの乗った船を秋田?辺りに無事に着けてくれたからです。
もし母たちが無事に着いていなければ、辻岡家は消滅しておりました。
私の子ども時代はもちろん先日まで、こんな重要人物だとは知らなかった。
この推理・調査でフルネームを初めて確認いたしました。
既に亡くなっておりますか横田清吉さんです。明治38年生まれです。
姉曰く、恰幅の良いオジサンが来ると狭い茶の間に居場所が無くなったと。


中田先生の祖父が孫たちの教育のために根室で暮らし始めた時(昭和6年)の地主が、
私の母の養祖母だったことは連載シリーズ第一回目に書きましたけど、
中田先生によると、空襲前の3〜4年間、本通り向かいに住んでいたのが横田さんで、
小柄なおばさんと娘(女学生きよこ)さんを記憶しており、空襲で焼け出されたと。
戦後70年も経ってから私が調べ、こんな縁が初めて判ったのですから不思議です。
昔の根室は大きな町じゃないのですから、色んな縁がありえますけど、
「たまたま」だけでは済まされない何かがあるような気がしてなりません。


これもまた昔のこと過ぎて、推測というか私の勝手な想像でしかないのですが、
《私の推測》郵便物運搬船と横田船頭さん
(色丹島・得能幸雄さんの語る郵便事情/小島敏郎『郵政人の北方領土』から)
郵便物は定期船が月に3回寄港予定
が実際は月に1回来ればいい方
だから荷物運搬船と別途契約して運搬

横田船頭さんがこの荷物運搬船だった可能性が高いと思う。
多楽島以外を含めても、郵便局の郵便物だけの運搬だと高が知れているので、
辻岡商店などの扱う雑貨の搬入や乗客移動なども手広くやっていたのでは!?
中田先生によると、国後の水産試験場関連の船頭をやっていたのでは?
いくつかの島の郵便物の搬出入や乗合船に雑貨店への商品搬入、
そうなると泊りになることもあり、多楽郵便局に泊って晩酌の歓待?
残念ながら親父が酒を訓練して呑むようになったのは、
島を脱出してやっと定職(ヤマレン)が見つかった昭和26年頃からだが…
そんな多楽郵便局での付き合いがあったので、母たち郵便局の島脱出に関わり、
更には秋田辺りへ向けての船の決死行の立案・実行と…
そして戦後も辻岡家は横田家と懇意に…。

更に後のことだが、昭和34年(1959)には
母方親戚の清水浩さん、大阪から根室の横田家に婿入り。
《姉談》
北海道に父さんの塚田系は沢山居るけど、母の宮下系は誰も居なかったから、
浩さんが根室に来てくれたのを母はとても頼もしく思ったのではないか。

(浩さんのお兄さんが母の依頼があって一時期、多楽郵便局を手伝っていたと)
《姉談》1944年6月?(昭和19年)、父(38歳?)兵役に
生まれて6か月の私を抱いた軍服姿の父の写真がある。
もう帰れないかもと撮った一枚らしい
(丙種合格の父/戦地には行っていない)。
(この時に浩さんのお兄さんに手伝ってもらったのか?
いつ父が兵役から戻ったのかは不明)


長野へ向けての決死行の後日談
《姉談/母聞き》
長野に着いてからの話だが、
一時疎開のつもりで多楽島を脱出したので、
持っているのは夏服と秋服に、よそ行き着物のみ、
長野で娘に着せるものが無かったことから、
冬子(母の義姉/宮下家の長男の嫁)さんのお腰をもらい、
それを染めて、長女の普段着を作った。
母は結構器用だから…


終戦後、ソ連軍が北方領土の島々に上陸したことから、
島を脱出した方はたくさんいたようです。
荒波に飲み込まれて根室に辿り着けなかった方も…
ようやく根室にたどりついたものの逃げて来た人が多く、
住む家は無く別海の浜で暮らすしかなかった方がたくさん…
根室空襲で焼け野原と化していた根室の港では岸壁にたくさんの人が…

状況は様々だったのでしょうが、母たちのように実家(生家)を目指した人も…

千島連盟(千島歯舞諸島居住者連盟)の平成27年3月31日現在の正会員数は3,880名(元島民2,070名、後継者1,810名)で、道内会員は2,735名、道外会員は1,145名となっており、道外会員のうち関東支部459名、富山支部385名と、何故か富山県が突出しております。
http://www.chishima.or.jp/pdf/H27-kaiin.pdf
これは北方領土の島には富山出身者がとても多かったということと
島脱出後、出身地の富山に移住した方が多かったからだと思います。
《参考》
●昆布消費量 [ 2010年第一位 富山県 ]|新・都道府県別統計とランキングで見る県民性 [とどラン
http://todo-ran.com/t/kiji/14642
"富山市の消費量が多い理由としては、昆布が日本各地に広がっていった経過が関係あります。富山は江戸時代に海運業で栄え、昆布を蝦夷(北海道)から大阪に運んでいた北前船の中継地点として、大量の昆布が北海道から富山に運び込まれました。
そのため富山では昆布を使った郷土料理が多く作られるようになりその名残が現在まで残って、このように消費が多くなっているのだと思われます。コンビニで「とろろ昆布」のおにぎりが売られているなど富山は昆布の消費量日本一を誇っています。"


戦後生まれで船の知識皆無の私が推理した島脱出後の当家エピソードでしたが、
小さなエピソード(姉の母聞き談)を軸に、当時の社会情勢で肉付けしながら、
こうだったのではないかと推論したものです。
推理ドラマで未解決事件を紐解く探偵が、色んな人物と出来事の写真・メモを壁に貼って推理しているような雰囲気でした。
貼る壁の代わりに、私の場合に活躍したのが、表ソフトエクセルです。
終戦前後の古いことだと、父母の兄弟姉妹も亡くなっておりますから、
その子どもレベルの父母からの聞き話しか証言がありません。
私はその姉からの又聞きにやっと間に合った感じです。
父母に関する情報は限られているので、色んな可能性の枝を想定・想像しながら、
推論で可能性を絞って推断することしか私にはできません。
その推理の経過も書こうとしているので、こんな風に長くなってしまいました。
もっと色んな書物や証言を調べたら、肉付けに役立つ新情報もあるのでしょうが、
この辺が限界だということに致します。


残す連載予定は後2回です。
次回は島を脱出できなかった人たちを描いたアニメ「ジョバンニの島」と
そのモデルとなった人・得能宏さんの証言をメインに書く予定です。
あくまでも戦後生まれの私の目線でしか書けませんが、
父の多楽島脱出エピソードを導入部とします。
私が父から直接聴いて憶えているエピソードはほとんど無いけど……

《関係者へのお詫び》
これ以上の校正などはもう止めようとこの原稿が完成したのは6/30のことだ。
いつもなら、ブログにアップすると同時に、原稿の印刷したものを関係者に送付、
というつもりでいたら、プリンターのインク切れがあり、
6/30(木)に早速アマゾンで注文し、7/1に発送連絡があったので、
インクカートリッジは7/4(月)に届くだろうから、
7/5(火)には発送と記事アップができるだろうと待っていたのに7/5にも届かない。
昨夜まだ届かない旨を連絡したら本日7/6に返信連絡があり、
結局、日本郵便への調査依頼をお願いしました。
ということで、ブログへのアップのみを先行いたします。
よって原稿印刷物の発送は少し遅れます。
posted by yumenoya at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月21日

★ソ連軍上陸後に島を脱出した宿屋の漆塗り朱色お膳セット木箱 その2(北方領土・多楽島-3)

(当初予定していたより文章量が増えたので二分割して掲載)

《親父談/ソ連軍上陸後》
「日本軍の幹部から、ソ連軍は、日本軍の武装解除を終わったら、
島には長くいないという風に聞かされていた。
それでも、ソ連軍が来たら、女子や子供は島にいない方が良いと言われていたので、
根室の方へ、一時疎開のつもりで、島を脱出させた。
ところがソ連軍は、武装解除を終わっても、そのまま駐留してしまったので、
島を出た人々は、それっきり島に戻ることはできなかった。」
(小島敏郎「郵政人の北方領土」平成7年より)

姉の母聞きによると、母も"一時疎開のつもりで"島を脱出したようで、
米・味噌などと当面の衣類しか持ち出していなかったようです。
●姉の母聞き談の島脱出には、養祖母は登場しないので、
辻岡商店の脱出は母たち郵便局グループとは別便と思われる。
(注・母たちは次回の記事で活躍する横田船頭さんの船で島を脱出)

《辻岡商店》
姉の母聞きによると、辻岡商店は宿屋と何かの小売りもしていたらしい。
が本当はどうなのかはよく判らないのと
結構な大きさの木箱が4個ですから、これを持って島を脱出できたのか?
それともその時には、宿屋については廃業していたので、
平内町の家に移動済みだったという可能性も残る。
養祖母は昭和26年に81歳で亡くなっておりますが、
逆算すると終戦時に75歳ですから、引退していてもおかしくない年齢。
昆布を干す前浜に結構な土地(利用権利?)を持っていたようなので、なおさら…
または動かせる財産で一番高いものがお膳セットの木箱…
(土足で上がり、金目の物を探したソ連兵たちを目の当たりにしているだろう)
居ない間にお膳セットがソ連兵に壊されたら困る…
宿屋用に新調したもので大正時代には結構高価な漆器だった?…

《ソ連軍が上陸した時に辻岡商店は営業していたのか?》
辻岡商店の宿道具として今に伝わる「漆塗り朱色お膳セット木箱」に関連し、
ソ連軍が多楽島に上陸した当時、
「辻岡商店」はどうだったのかを知りたいのですがと、
3/6(日曜)中田先生に電話して、当時をご存知そうな方を紹介してもらった。
東狐貢(とうこみつぐ)さんがよろしいのではと電話番号を教えてもらい、
早速電話をしました。
残念ながら、ツジオカという名前はかすかに記憶はあるけど……、
その頃のことをずっと調べているカワタヒロトシさんなら判るかも知れないと、
カワタさんの電話番号を教えていただきました。

多楽島関係の証言動画を視た時のメモを確認しましたら、
「河田弘登志、昭和9年生まれ、終戦時10歳」があったので、
再度視聴してから、多楽島の住居地図で同姓の家を探して確認
●河田弘登志氏 歯舞群島多楽島(元島民の体験談動画)| 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/nettv/experience/ex_tp_kawada/
(Firefoxは再生不可、IE及びChromeは再生可)
●千島連盟のサイトにある居住地図では古別(フルベツ)の「辻岡マス(商店)」
http://www.chishima.or.jp/pdf/map/habomai/09.pdf
(辻岡商店と河田宗四郎宅との距離感を確認)

《終戦時に10歳だった河田弘登志さんに教えていただきした》
(地図の河田宗四郎宅で確認が取れました)
・郵便局は辻岡さんがやっていた。
・辻岡商店は宿泊所と田舎にあるような何でも扱っている雑貨屋を兼ねていた。
・昆布買い付けの商人だけでなく、色んな人が宿を利用していた。
・自力脱出組には結構財産を持ち出した人もいました。
・お菓子などを買いに辻岡商店を利用していたので、ソ連軍が上陸した時にも店は営業していた。

「自力脱出組には結構財産を持ち出した人もいました」ということと、
辻岡商店が懇意な船頭さんの船(宿泊客&雑貨仕入れ)を頼んだとすると、
お膳セット木箱((横/縦/奥行)36cm×100cm×36cm)の4個は積めそうなので、
ソ連軍上陸後に脱出しただろうと推理を確定しました。
(次回に詳しく触れますが、20〜30tクラスの船と想定しての推理)


「宿屋と何かの小売りもしていたらしい」としか判らなかった辻岡商店だったが、
実際に店を利用していた河田弘登志さんの証言で喜んでいました。

その後日、何度も電話して助けてもらっている中田勇先生ですが、
河田弘登志さん(多楽会の副会長兼事務局長/千島歯舞諸島居住者連盟(略称:千島連盟)副理事長)から下記の記念誌を入手して、小生に送っていただきました。
そこに下記の記事が収録されていました。
《辻岡商店についての記事》
●島の商店(「多楽会創立40周年記念誌 たらく」(平成25年1月31日)より)
・商店は日用雑貨が主でちり紙・たわし・ほうき・石けん・駄菓子・酒類といったものでした。
・(6軒の商店の)中でも古別の辻岡商店は1番大きく、他の商店で売っていない物も「辻岡商店まで足を運べば手に入る」と言ったものでした。
(「たらく」収録の「歯舞群島旧島民の生活」からの抜粋
北方領土研究シリーズ その2 1986 北海道根室高校地理研究部)
北海道根室高校地理研究部の皆さん、どうもありがとうございました。
仏壇の間の写真でしか知らない養祖母ですが、商人としては結構頑張っていたようです。


前回紹介した中田先生の「アザラシ皮のカバン」ほどでないにしても、
伝わる現物があるから写真があっての新聞記事が可能で、インパクトがあるぞと。
姉に訊いたら、お膳セットにまつわるエピソードもあるし、
多楽島に生まれた姉がそれらを語れば、絵になるなというイメージでした。

お膳セットについての調査がほぼ固まった時に姉に相談しました。
北海道新聞に北方領土にまつわる記事として売り込みをしたいが、と。
70歳を越えた姉としては、今さら目立つのは嫌で、このままひっそりと…。

宿で使っていたお膳セット木箱を調べ始めた当初のインパクトある目論見が消えましたので、
昔、貸本"夢の屋"についての記事を書いていただいた記者に突如電話して相談しました。
記事としてモノになるかどうか判らないことを取材記者に説明する手間を考えたら、
自分の思っているようにまとめる手間の方が楽だと。
その結果がこうやって自分でブログの記事を書くことでした。


島でそして根室でと、色んな出来事に立ちあってきたお膳セット
いつか、実生活で使わないものは邪魔という時代が来るだろう?
お膳セットについて調査を始めた頃に、ネットでその価値を調べた。
すると旧家や土蔵を壊す時に破棄処分されているのが普通のようです。
絵装飾は無いから高評価は無理でも、破棄処分はしないでせめて古道具屋へ。
ひょっとしたら古道具屋も断るかな…
大正に製造をと感じさせない良い状態と造り?と記憶しているけど、
装飾が無いから、映画やテレビドラマの小道具にはピタリかな?


飛び込んで来た4/13(水)のニュース
●ロシア外相、北方領土「4島すべてが交渉対象になる」-2016年4月13日(水) 7時35分 TBS News(動画付き)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2748512.html
地元の北海道新聞はどう報道したか
●「4島全て交渉対象」 ロシア外相、領土問題で明言-04/12 23:10、04/13 01:37 更新 どうしんウェブ
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/international/international/1-0258602.html
北方領土問題に関心の薄い私ですが、こういうニュースには割と敏感な方でした。
4島を論議の俎上に載せましょうとロシア側が言ったのはかなり画期的なニュース!?
ロシアも望んでいるのですから、具体的な進展を期待しています。

と期待はしても、外交という政治レベルの話は生活の話とはかけ離れています。
明治・大正時代に後に"北方領土"と呼ばれる島に入植した日本人が居て、
そこに生活基盤を築き、子を孫をと育んできたが、突然のソ連軍上陸。
逆に考えると、ソ連政府の命令で島へ家族を呼べと言われた将校等が居た。
その1945年から、もう70年が経っています。
ソ連入植者たちの島生まれの子ども世代に孫が居ても当然。
お互いに翻弄されたロシア人と日本人とが共存する方法の模索……


戦後生まれの私は生活レベルの島にまつわるエピソードを紐解くこととし、
次回は多楽島脱出後に第二子出産のために
「長野へ向かっての決死行?(船で秋田辺りを目指して根室を出港)」を予定
posted by yumenoya at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

★ソ連軍上陸後に島を脱出した宿屋の漆塗り朱色お膳セット木箱 その1/写真六葉(北方領土・多楽島-2)

多楽島にちなむ物で最初に思い浮かべたのは、木箱入りの漆塗り朱色お膳セットだった。

あの木箱を最後に見たのは、兄貴のところの1階の物置のあの部屋だ。
木箱には黒色の達筆で色々書いてあったが、今まで気にしたことがなかったので、
電話で久美子ちゃんに解読を頼んだ。

《◆兄貴&久美子の調べ》
お膳セットの黒筆箱書き(縦書き)
有った数(楷朱膳木箱3個+小木箱1個)

楷朱膳(膳→食偏に善) 五人前
大正八年1月新調
辻岡商店(頭に屋号印)

膳食夜(膳→食偏に善) 二十人前
大正九年1月新調
辻岡商店(頭に屋号印)
(注・久美子ちゃんはどちらも使ったことが無いので、「膳食夜」の中味は不明)

※楷の木/カイノキ(楷樹)とは?(ウィキペディアWikipedia)
・ウルシ科カイノキ属の落葉高木
・孔子と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、学問の聖木とされる。
・材質は堅く、心材は鮮黄色で木目が美しい。優良な家具材であり、船材、杖、碁盤などに用いられる。

姉と電話で色々と話していたら、「嫁入りの時に一箱を持たされた」と判明。
《◆姉談》お膳木箱(5組入り)1箱
(その内訳)
お膳と5種食器(全て漆塗り朱色)
・小さなご飯用お椀(フタ付き)
・大きなお汁用お椀(フタ付き)
・茶碗蒸し的少し縦長お椀(フタ付き)
・大きめの皿(フタ付き)
・丸皿
(子ども達が小さいときには、正月に使っていた)
(「お櫃」セットも一緒に入っていたことが後日、姉の写真で判明)

※兄貴の所と姉のを合わせるとお膳セットは二十人前で、小さな木箱の箱書きとも一致

※「新調」とわざわざ書いてあるのは、既存のお膳セットがあって、
それらが古くなったので「新調」したと解釈もできる。
「大正八年1月新調」とは、もっと以前から宿屋をやっていたとも……

◆4/9(土曜)に姉からの写真6葉と木箱の寸法メモが到着
【箱写真】正面、フタ外し正面、右側面(辻岡ます)、左側面(辻岡商店)
【お膳5点写真】斜め全景、上から全景
【箱寸法】(横/縦/奥行)36cm×100cm×36cm
・姉の写真を確認したら、今までの話に出て来ないお櫃があったので確認
【お櫃セット】(全て朱塗り)お櫃、お櫃入れ、しゃもじ、四角形お盆
お櫃を使ったことが無いので、姉の記憶に欠如していました。
・フタの中央に◯穴、指を入れて上へずらすとフタが外れる仕組み
・両側面の字「楷」の下に横木(箱移動時に持つところ)

(写真を撮った姉によると、木箱の上にダンボール箱があり、確認したら、
お膳セットが一組入っていた。木箱の後に母が追加で持たしてくれたもの。
旭川にはこんなバラのお膳セットが伝わっているはず。
新調する前のお膳セットがあるということは、宿屋開業はもっと古そうだ。)

<物置でフラッシュしている写真なので少し反射光>
◆楷朱膳.jpg
s-楷朱膳.jpg
◆お膳セット.jpg(下の写真の方向を間違えていたので訂正してアップ)
s-スキャンお膳セット.jpg

《姉談/姉の母聞き談》(梅ヶ枝町に住んでいた時代)
(平内町の養祖母が亡くなったのは昭和26年で81歳/姉・小学校2年生)
遺した金銭的財産が無かったので、父の兄さんに借金して葬式を出した。
遺産はお膳セットと鳴海町の小さな土地のみ。

葬式で用意した中華まんじゅう(葬式まんじゅう)が沢山余ったので、
かなりの期間、美味しく食べることができた。
(養祖母とはかなり疎遠だったらしく、子どもの正直な印象記憶)
(私は姉と八つ違いですが、私の子ども時代にも葬式まんじゅうはごちそうでした。
何せサッカリン(人工甘味料)の時代でしたし、子どもは甘いものが好きですから)

●「お葬式と中華まんじゅう」北のお菓子たち:北海道人
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200405/special_08.html

《姉談》
結婚式とかの需要があったようで、お膳セットを借りに来る人が結構いたので、
返却時に届くお礼のご馳走やお菓子は、楽しみで、嬉しかった。

《私》
・根室空襲の被害甚大なので、お膳セットは根室では少し貴重?
・亡くなった養祖母も貸していて、それが今度は相続した家にあるぞと伝播したか?
・養祖母は多楽島でも案外貸出していたかも?
 (多楽島で結婚した人には、この木箱を利用した人が居そう)
・今のような結婚式&披露宴という時代ではないので、
朱塗りお膳セットがあるだけで、祝言の目出度い雰囲気は十分演出できたのではないかな。
・物心ついた子ども時代には、我が家でも元旦には使っていたと記憶
 (朱色のお膳セットを前に正座すると、子どもも一人前になったようなシャキィッとした厳かな気分に…)

★脱出したらしい「宿屋の漆塗り朱色お膳セット木箱」を紹介するだけなら、
これだけでお終いなのだが、気になる点はスッキリさせたい。
"ソ連軍上陸後に島を脱出した?"のウラ取りが欲しいので、「その2」に続く。
posted by yumenoya at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月05日

★亡き母の若き日を求めての推理劇は突如開幕した(北方領土・多楽島-1)

劇的な遭遇は、気まぐれなネット検索から始まった。
2月20日(土)夜、中学時代の3年間、クラス担任だった中田先生(数学)について、教え子の誰かがブログなどで書いているかも知れないと思って、試しに検索してみた。
すると何と、中田先生は色丹島出身者で北方領土問題の語り部として活動しており、その証言動画も活動記録なども簡単にいくつも見つかりしました。動画の顔と声は記憶にある中田先生で間違いありません。

★根室って、北方領土って何処にあるの??&子ども時代の意識(「北方領土・多楽島」の補足記事1)-4/5 気まぐれ何でもメモ帳(夢の屋/ゆめのや)
http://yumenoya.seesaa.net/article/436241752.html

ビックリしたのは、中田先生が北方領土の出身者だったことです。このネット検索をするまでは、それを全く知らなかったのですから、これは驚きでした。

中学時代、中田先生は正式な家庭訪問ではなくて、個人的に我が家を訪れて、何度も親父と酒を呑み交わしておりました。けど中学生の私には、大人の会話には全く関心がないので、何を語っていたのかは知らないし、親父と歳は離れているのにウマが合うのだろうかと少し不思議には感じていました。もしそこで色丹島が話題になっていれば、中田先生が帰った後に両親は私に教えてくれたはず。なのに私がそれを忘れてしまったのだろうか??という疑問が生じました。

というのは、母は若い時に養祖母に連れられて長野から多楽島へ養女に(親戚も知人もいない根室に/やっと根室に着いたと思ったら船に乗せられた/母は島だとは聞いていなかったようだ)。そしてそこへ父が婿入りし多楽郵便局を、昭和19年には姉が誕生。しかし終戦後にソ連軍が上陸したので、まずは母たちが、最後に父が島を脱出し逃げて来たと。そして父に定職が見つかるまでは大変だったと。これが多楽島に関する私の知識でした。ですから、父母が多楽島で過ごしたのは短いとは云え、もし酒を呑みながら北方領土が話題になっていたら、そのことを私が知らないはずは無いだろうと。

また北方領土問題に関心の薄い私でしたけど、私は母や父のように皆が島を脱出したのだろうとずっと思っていました。
ところが、動画証言によりますと、中田先生の祖父・父母などの家族のように、ソ連軍上陸後2年間その監視の下に島で暮らし、そこから樺太(サハリン)の真岡に移動して収容され、そしてやっと引揚船で函館に着いたと。そんな方がたくさん居たというのは更に驚きでした。
●中田勇さん(北方四島の元島民)|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110556_00000
●中田 勇氏 色丹島色丹村 | 体験談動画 | 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/nettv/experience/ex_douto_nkt/
(私は普段Firefoxを使っているが再生不可も、IEでしたら再生可)

私の無知とは云え、どうして、小学校には郷土を学ぶ時間があったし、歴史の授業だってあったのに、先生方は意識的にそれを避けていたのだろうか!?という疑念。生まれる前の事件とは云え、それを知らないのは恥だし、それに無知なのは情けない事です。とは云え、郷土の歴史の教え方はかなり難しいだろうなとは思うものの、小中高時代に何も教えられず、64歳になってから初めて知って驚いている私がここにおります。

2月21日(日)の深夜は、色丹島のことを描いたアニメ「ジョバンニの島」を初めて観ていて、ロシアの少女が登場したところで鑑賞中止し、中田先生に電話するしかないと決心して就寝。このままでは自分の中でしっくりしないから、中田先生に問いを投げかけるしかない…。


《★中田先生に電話/中学卒業以来49年振り》
ネットで調べた電話番号が同姓同名の可能性もあったが、動画の声と同じだったので、光洋中学校で三年間クラス担任でお世話になったツジオカですと名乗りましたら、ヒデアキ君かい?とすぐに判っていただきました。

決して懐かしくって電話したのではなく、教えていただきたいことがあって突然電話しておりますと。
ネットで検索しましたら、先生の語り部活動と証言動画があって、それで初めて先生が色丹出身と判りましたが、父と母の前で北方領土が話題になったことはあったのでしょうか?と。
「酒を呑みながらお互いに、北方領土とか、色丹、多楽の話になったことは一度も無い」

私は今回証言動画を視たり、ネット記事を読むまで、樺太の真岡を経由してやっと函館に引き揚げてきた方がたくさん居たことを今までずっと知らなかったのですが、生徒の前で"北方領土"について話したことはあったのでしょうか?と。
「語ることがタフー視された時代があった」
「ロシアを刺激しないようにしていた時期があった」

(ここは私の解釈ですが、当時、北方領土問題についての政府の方針はまだ固まっていない。ソ連政府に遠慮した政府・外務省を観ながら、文部省も教育現場で何をどのように教えるかの方針を出せずにいたと。いびつな教育を受けて巣立ったのが私だ。納得はしていないが…このシリーズ記事の最終回で総括する時に少しまとめて書くことにしよう)

これで一応疑問点は氷解しましたし、疑義点の時代背景が判りましたので、私の記憶に強く残っている中田先生の面白い話を二つ披露しました。
「米と異なるがくっ付くと糞(くそ)になる」
「楠正成は籠城した時に、敵に投げるものが無くなり、煮えたぎった糞尿を上から敵兵にかけた」
先生はそんな事あったかなと笑っておられました。
(と数学の授業で脱線するのが楽しみだった先生です)


《★より驚愕する事が判明して、私の好奇心に火が点き、推理ドラマの第一幕は始まった!!》
先生「実はお母さんの若い時に見かけている

「何!?!??!?」と一気に私の生まれるずっと前の出来事にタイムスリップです。

先生「色丹島の小学校へ行くとしたら、通うには遠過ぎて小学校そばに下宿するしかなかった。それで祖父は孫たちの教育のために引退して、根室の鳴海町に住居を構え、そこから学校へ通わせることとした。私は昭和10年から花咲尋常小学校に通った。いつの事かは憶えていないが、祖父に連れられて、平内町の辻岡家へ地代金の支払いに行った。地主のおばさん以外に、女学生っぽい、若い女性が居た。」

(血のつながらない)祖母が亡くなっ時に確かに鳴海町に小さな細長い土地を遺している。でも多楽島に居るはずの祖母と母がどうして根室に居たの!?「女学生っぽい…」ということは結婚前の母かも!?そもそも母は何年に多楽島へ養女に来たの!?
と頭の中はパニック状態です。

まさか先生への電話でこんな驚愕な事が出てくるとは予想だにしていないし、とっさのことだったので何もメモを取っておりませんでした。
実はどういうふうに最後の挨拶をして受話器を置いたのかも記憶にありません。

中田先生の新証言「若い時の母」の裏を取るには、調べることが沢山あります。(私は朝日新聞の記者のように鵜呑みには出来ないので(記憶間違いかも…と一応疑ってかかるタイプです)、外堀を埋める証拠固めをして(裏を取って)、それからやっと自分で納得することができます)

1 長野から母が来たのはいつで、父の婿入り婚はいつ?
2 母が養女にきた時の家族構成と仏間にあった三枚の写真は誰?(血はつながっていない事を知っているものだから、昔から無関心で祖母以外は誰なのか判らない)
3 戦後の鳴海町についての土地勘は記憶にあるので、中田先生の祖父が住んでいたのは、間違いなく祖母の土地なのか?

この調査に並行して、多楽出身者の動画証言は視たいし、アニメ「ジョバンニの島」とそのモデルとなった色丹出身・得能宏さんの動画証言も視たいなどが同時進行しております。

《★住所と住宅の確認》
まず裏取り調査は3の住所から始めました。1と2は私の生まれる前のことですが、3の住所なら私の記憶にある現在の土地につながっていますので、調べるにしても場所をイメージしながら推理が可能です。

その取っ掛かりにあったのは、中田先生の動画証言に出て来た、色丹→根室→根室空襲→色丹(終戦→ソ連軍上陸)→樺太(真岡)→函館と数奇な旅をした祖父の「アザラシ皮のカバン」の中にあった名刺のシーンです。その名刺を拡大したら、住所が判明するかも?
●中田勇さん(北方四島の元島民)|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110556_00000
・名刺で「根室町鳴海町○丁目△番地」と確認
これは現在のGoogle地図と私の記憶にある養祖母の土地と一致しました。

ここで戦前の根室町の住居の地図はないものかとネットを探しましたら、何と見つかりました。
●根室トピックス 根室懐かしふぁおとぐらふ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3922/111.natsukashi.mokuji.html
パート122 昭和11年 根室町住宅地図
パート121 昭和5年 根室町住宅地図

ここにあったのは手書き地図の画像でしたけど、
地図で探す時の一番目安となる「鳴海公園」がありません。
そうか根室空襲で焼け野原となり、戦後その復興の時に整備されたのが「鳴海公園」だったのかと納得。
(こんな事ぐらい小学校の郷土を学ぶ時間に教えてよ!!!)
あるはずの「鳴海公園」が無いし、手書き文字がかすれており、
昭和11年地図で鳴海町○丁目の家を確認できないものだから、
2/27(土曜)中田先生に電話して、電話で道案内してもらいました。

小学校前の通りの角にタバコ屋があります。「そうそう」といった感じで、確認しながら。私が想定していた不鮮明な中田宅は仲通り、ところが中田先生は本通りに面していると。…???…ありました。かすれており、葭治郎が葭「太」郎と誤記していましたが、ちゃんとありました。横の仲通りを本通りと勘違いしておりました。これで、中田先生の祖父の家は戦前の地図で確認できましたので、祖母が地主の土地で暮らしていた事の調査は終了しました。

この電話の最後に、平内町に地主の家があるから確認してご覧、大正にもあったことは手元の地図で確認したと。
その電話後に平内町を確認しましたら、昭和5年にも昭和11年にも「辻岡(マス)」ありました。

この時には、色んな動画証言を既に視ておりましたので、オホーツク海側は流氷で閉ざされることから、越冬用の食料をまとめて揃えて島で冬を越した人がおり、また根室の別宅で越冬する人も居たことを承知しておりましたので、平内町に家があっても何ら不思議で無い。養祖母には根室にも別宅があり、多楽島へ来た養女の母が養祖母と一緒に根室に居ても何ら不思議でない事だし、地代金の集金もあったかも…。

《★それは本当に私の母なのか!?!?》
そして残る疑念は、中田先生の「女学生っぽい、若い女性」は本当に、私の母なのだろうか?です。仏壇の間にあった若い女性の可能性もある??と気になっていたが…

2/28(土曜)、鳴海町の裏が取れたので兄貴に電話し、中田先生との電話で母にまつわる証言があって、その確認のためには、仏壇の間に掲げてあった三人の名前と亡くなったのは何年かが必要だと。ひょっとしたら、写真の裏には享年なんかの情報が書いているかもと。久美ちゃん(兄貴の嫁さんだけど、私の誕生よりは少し後なので、ずっと久美ちゃんと呼んでおります)から、ホコリまみれになったけど、裏には何も書いていないと電話連絡。そして追伸電話、お母さんの三人メモが出てきたと。

・「きみ」昭和10年8/27、16歳死亡 (母が養女に入る前に亡くなっていたマスの唯一の孫である長女/結核/母の改名の由来)
・「源太郎」、昭和18年1/15、54歳死亡 (養父/結核/養父死亡の直後に父は婿入り婚)
・「マス」昭和26年11/9、81歳死亡 (養祖母/母を長野から連れて来た人)
(「みさを」養母、戦後に亡くなった妹の子どもたちを育てるため根室から富山へ)

(母は亡くなる前に、遺産についての遺言をちゃんと書いており、葬式で戸惑わないように、我が家の家紋の印とその名前まで記して残していました。そんなしっかり者のオフクロでしたから、写真の三人についてメモがあった事には、さすがオフクロだと、64歳の私も感服しました。)

中田先生の花咲尋常小学校入学は昭和10年(祖父宅)
辻岡きみが結核で亡くなったのは昭和10年8/27で16歳
母が長野から養女に来たのは昭和15年夏で24歳の時
父が婿入りで結婚したのは昭和18年で母26歳の時
(これらを確認するため戸籍を取寄せて確認したのは3/5)

戦前の結核については全く無知だか、他人の前に出てくるのは変だと考えると「きみ」説は消える。
もし「きみ」が地主宅に居たとしたも、まさに女学生年齢の「きみ」を見て、
中田先生の「女学生っぽい、若い女性」という表現になるだろうか?
大人なんだけど、女学生っぽい若さの(キレイな)女性、をそう表現したと…。

戸籍が届く前、こんな推理をしていた時、姉に電話相談したところ、
小学1年生が一度だけ見た(会った)人を憶えているはずがない。
小学校上級生や中学生ならともかくも…。
ということで、「女学生っぽい、若い女性」は母だでほぼ確定。

次は、結婚前の母かどうか!?
母がいつから郵便局の職員だったかはその後の調査でも不明だが、
昭和18年2月に養父が亡くなり、即父と結婚してからは、
郵便局の仕事があるし、その年末には姉が生まれているので、
祖母と一緒に根室へ出て来たとは考えづらい。
また結婚すると髪型や服装も少し変わったのでは、と思うし、
さらに「女学生っぽい、若い女性」という印象から、未婚の女性っぽい。
ということで、私の望み通り「結婚前の母」で、
中田先生が母を見かけたのは昭和15〜17年の間で、
中田少年は今の小学6年生〜中学2年生だったと推理結果は確定しました。

この調査推理に併行して、次回に取り上げ予定の「多楽島を脱出した宿屋の漆塗りお膳セット4木箱(二十人前)」などの調査・推理を進めておりましたので、中田先生には度々電話をかけていました。途中からは、奥様が出ると「毎度お騒がせのツジオカです」の挨拶が定番となっておりました。

「結婚前の母」で間違いないと推理の結論が出た後に、
別の件で電話をしました時、先生に確認しましたら、
担当クラスの名簿に「辻岡」という名を見たときに、
あの女性の息子さんかな!?と思ったそうです。
最初の家庭訪問で「母」を見た時に「この人だ」と…
父と呑みながら「お母さんのしてくれるお酌は格別」だったそうです。


母が子どもの頃には、"ガイジン(外人)"と結構いじめられたそうです。
母の若い時の写真のことは何も記憶にないけれど、
息子が言うのも何ですけど、色白で結構キレイだったろうと思います。
その意味では、中田少年に見る目が合った、審美眼を持っていたと。
もし、このエピソードが根室時代に母の前で披露されていたら、
「あの時一緒に来た少年が…、なんと今は息子の担任に!!」と母はとても喜んだでしょう。

ところが運命の采配は、1940〜2年の出来事を2016年まで75年間も秘匿に…
母が亡くなったのは1996年2/14(平成8年)
私が中田先生に電話したのは2016年2/22(卒業以来だと49年振りの会話)
奇しくも同じ2月で母の死からちょうど20年
中田先生との不思議な縁(えにし)
それは1931年(昭和6年)に中田先生の祖父が養祖母の土地を借りたことで始まっていた。
運命の女神の傍には時計役目も兼ねた脚本家が付いているのか!?
まさに「事実は小説より奇なり」です。

昭和15年にたまたま多楽島に養女としてやって来ることになった母、ようやく根室に到着したと思ったら船に乗せられて驚いた母(養女先が島とは聞かされていなかった/本籍地は根室町)。そして中田少年の前に現れた、結婚する前の若き母、それが母にまつわる北海道最古の記憶証言です。

★中田先生の少年時代と突如リンクして1940年頃にタイムスリップ!!(不思議な縁のリンク年表)
nakata-link.JPG
1●2016年2/22(49年振り) 中田先生に電話(現代)

2●1964年4月(昭和39年) 私の中学校入学(52年前)

3●1940年7月(昭和15年) 長野から母は多楽島へ養女に(24歳)
中学時代のことで疑問があって電話したつもりが、
さらに20年以上も遠い過去へ突如吹っ飛ばされていました!?!?!?
の図です。


《★北方領土・多楽島-1の最後に》
宮城大学の学生13名に引率2名を加えた15名での現地視察実施があった時の報告書にあった中田勇さん講話の言葉を紹介します。
●平成25年度「北方領土青少年現地視察事業」を実施しました
http://hoppoumiyagi.shakunage.net/2013gentishisatsu.htm
http://hoppoumiyagi.shakunage.net/2013jigyouhoukoku03.pdf
「・私はもう68年間我慢をしてきました。68年間ずっとマラソンを走ってきました。ゴールに着けるかと思いましたが,どうもたどり着けそうにありません。
・ここからは,マラソンから駅伝に切り換え,たすきを渡さなければならなくなりました。誰がたすきを受け取るのか,それは皆さんです。」

私は戦後生まれだし、父母が島生まれでも島育ちでも無く、姉には幼過ぎて島の記憶はゼロなので、私には北方領土問題にあまり強い関心は持てません。
が不思議な縁(えにし)ですから、中田先生の「誰がたすきを受け取るのか」の「たすき」に手をかけたつもりで、私の関心がある亡き父母にまつわるエピソードなどを記事にすることで、北方領土問題とソ連軍島上陸後に触れていきたいと思います。
posted by yumenoya at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

★根室って、北方領土って何処にあるの??&子ども時代の意識(「北方領土・多楽島」の補足記事1)

ここは、本編「北方領土・多楽島」を補足するためのページ1です。
アップ済みその本編は、近々追っかけアップの予定。
★亡き母の若き日を求めての推理劇は突如開幕した(北方領土・多楽島-1)-気まぐれ何でもメモ帳(夢の屋/ゆめのや)4/5
http://yumenoya.seesaa.net/article/436243471.html

●北方領土の位置と面積 | 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/gakushu/outline/islands/island1/

hoppouryodo-map.JPG
根室市を知らなくとも、今でも恒例なんだろうと思いますけど、
テレビ番組で「元旦の初日の出」と言えば必ず登場したのが、
日本最東端の納沙布岬からの少しずつ明るくなっていく風景でした。
そこから一番近い北方領土が、3.7kmの距離にある歯舞(はばまい)群島の貝殻島です。
歯舞群島の一番奥が多楽島で、更に奥に続く大きな島が色丹島。
色丹(シコタン)はアニメ「ジョバンニの島」の主舞台になったところです。

根室市より知床(しれとこ)の方が有名かもしれませんが、
根室半島と知床半島の間にある大きな島がクナシリ(国後島)です。
Google earth-a.JPG
Google earthでもっと上から見ると、千島列島全景と樺太(サハリン)もカムチャッカ半島も
Google earth-b.JPG
更に上空へで、アリューシャン列島とアラスカも
Google earth-c.JPG
ここに位置した北方領土の産業は豊かな漁場を背景とした漁業でした。
ですから、ソ連のちにロシアの監視船による日本漁船拿捕事件がかなり起きています。


子ども時代に戻ると、
ガス(濃霧)がかかっていない限り根室市内から北方向(海)に眼を向けると、
港と弁天島の風景の上に、奥に、地平線上に見えるのは、
そこにいつもドーンと鎮座していたのがクナシリ(国後島)でありその山々でした。

子どもにとってはロスケ(ソ連)に盗られた島というイメージだけで、
特別な意識を持つことは無いまま、風景の中に溶け込んでしまい、
やがてますます意識する対象からは消えていった。
授業が終わり花咲小学校の正門を出て右に折れると毎日この風景を見ていました。
また中学校の帰り道の高台で眼に飛び込んで来るのもこの海風景だったと記憶。
秋になると毎日、港の岸壁で氷下魚(コマイ)釣りかチカ釣りをしていましたが、気になるのは竿の引きのみ。
(冬は流氷で港が閉ざされるので釣りは不可に)
そして子どもたちの話題にクナシリ(国後島)が登場することは無いまま…
肉眼で見えない島々のことは当然なおさら……
(子ども時代のこんな意識については後日の本編で触れる予定)


「北方領土」「島を返せ」「還れ島」といった看板・垂れ幕などは当時の記憶の中に無いので、それらが登場したのは、私が根室を離れてからだと思う。ようやく政府の方針が固まってからと……
posted by yumenoya at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

★浦沢直樹の漫勉「五十嵐大介」&北方領土関連記事の予告(多楽島)★

今回の五十嵐大介さん編は、今までのように酒を一滴も飲まずに、またパソコンのネットニュースをちょっと確認という浮気をもせずに、じっとテレビを視ていました。最近は別の事で慌ただしいので、少しだけ感想を記しておきます。

「空気感」を表現して自分の体験を読者に伝えたいと。私の一番のお気に入りの「はなしっぱなし」も、それに共感(感応)していたから好きだったのかも。子どもの頃の神社、結構大きな木がたくさんあって、その周りには結構高いササ(笹)の藪も、そこは木漏れ日で姿を変え、(五十嵐大介さんの故郷のように豊かでないが)季節によって見え方も変化する。まさにその奥には何かが居そうな気配・雰囲気。「はなしっぱなし」ってそんな自然環境を舞台したちょっと奇妙で妖しい出来事を描いている。あの少しもわっとしたタッチだからこそ表現できたあの世界、そしてそこには独特の光の表現が。

見開きで上下二段コマの砂浜風景、その遠くにもつながっている砂浜という入り江の大コマ景色。普通の目線は右ページの右上コマに始まって左下コマ、そして左ページの右上コマへ。見開きの上下二段コマでもマンガ家は普通の目線を意識して描く(作者と読者の暗黙了解・約束ごとがある)。ところが五十嵐さんが描いた砂浜風景は上段コマの左に生い茂った大きな木を配置し、下段では右端に犬を配置しているので、目線は左から右へと動く。見開きページの始めは大きな木で、終わりは犬に(まるで左開きの外国マンガ雑誌だ)。浦沢さんは驚きながら、こう分析・解説していましたけど、結構画期的な事のようですな。納得しながら拝聴していました。

今回は特に長かったように感じたけど、密度が高いからそう感じたのか、あのペン使い、あのボールペン使い(じっとその流れを視ているとマジックですね)、そしてカッターを使ってのスクリーントーン削りであの光を表現してしまう技量など、制作現場の秘密を驚きながら堪能させていただきました。NHKと浦沢直樹さんと定点カメラに耐えて出演した五十嵐大介さんに感謝です。五十嵐大介さんって岩手県の田舎で野菜作りを始め、それをマンガ作品にした人なんだから、何となくテレビ番組のような目立つ場所には絶対出て来ない人なんだろうと勝手に想像しておりました。
《追記 大事なリンクを失念していました》
ここにはペンの微妙な動きを捉えた動画と放送されなかった会話の文字記事があります。
再放送を待てない方はこの動画を
●五十嵐大介 | 浦沢直樹の漫勉 | NHK
http://www.nhk.or.jp/manben/igarashi/


ついでに、もうひとつ想像したこと。先日、古本のリストを表ソフトに打ち込んでいました。ナタリア・マカロワ「ナタリア・マカロワ自伝―妖精ナターシャの想い出」(新書館)です。バレリーナには関心が無いけれど、どんな人なのかなと「まえがき」だけを読んだら、膨大な量のインタビューと会話の録音テープをたたき台に誕生した本でした。自伝誕生のエピソードの印象が強かったので、五十嵐さん描く格闘シーンが段々と完成されていく過程を見ていた時に、この本を想起してしまいました。五十嵐大介さんがもし躍動するバレリーナを表現したら、あの格闘シーンのようなバレエが……。私の好きな五十嵐さんの描く異様な世界とはまるで違いますけど、面白い組み合わせで、肉体表現の新境地を拓くかも。例えばニジンスキーとか。今取りかかっていることがあるので、五十嵐大介さんの話はここまでとし、ブログ予告へ


先日(2月20〜21日)、たまたま中学時代の先生の教え子の誰かがホームページやブログで記事にしているかも、と考えて試しにネットを検索してみました。
何とありました。教え子の記事ではなくて、北方領土問題の語り部としての中田勇さんについての記事と証言動画とが。

その記事を読み、関連動画なども少し見聞きして、「中田勇先生って北方領土の色丹出身だったの!?」というのが最初の驚きでした。そして「終戦後にソ連軍が島に上陸した時に島を脱出できなかった方がたくさん居て、その人たちはその2年後に島から樺太の真岡(真岡郵便電信局事件のあった所)に移動させられて収容所生活を送り、やっと引揚船で函館に帰り着いたのは昭和22年の秋頃!?」(何回かに分けての引揚で、収容所や引揚船の中で亡くなった人もたくさん居た)このことを初めて知ってショックでした。私は昭和27年の戦後生まれですけど、この時に生じた疑問・ショックを何とかしたい、私の中で少しでもしっくりさせたいと、中学生時代3年間クラス担任だった中田勇先生(数学教師)宅に電話をかけました。(ネットは便利だけど、一面怖い、住所と電話番号が検索で簡単に判ってしまう。電話帳にずっと載せていない人とか、それなりの公的人物でない人は心配ご無用ですけど…。ついでに皆が怖がる話をひとつ、案外知らない人が居るかも知れない、住所が判っていたら、Googleの地図検索で自宅・アパートなどの画像が見れる。これって泥棒なら仕事の下見です。例えば今度何日に家族揃って旅行とでもブログに書いて、空き巣がそれを読んだら、防犯設備がどうかは別にして、泥棒さんいらっしゃい宣言ですよ、「五十嵐大介」とか「中田勇」とかのキーワード検索で今ここを読んでいる方、夢の屋のブログには、こういう一口メモもありますので、たまには要チェックですよ)

閑話休題
中学を卒業したのは昭和42年(1967年)、後に両親が根室を離れたこともあり、(否、最初から参加したいと発想するタイプじゃない、気心の知っている奴と連絡できれば充分、私の場合一人だけ、接触して来る者は厭わず、設定してくれたら会うのはやはり懐かしいという消極派、つまり懐かしくって突然電話などしないタイプ)、地元のクラス会に出たことはないし、音信普通状態の私が中田先生と話すのは中学卒業以来なら49年振りとなります。この電話で、より驚くこと、母にまつわる話が判明して、私の好奇心に火が点いてしまい、母と父の歴史探索とエピソード集めが始まりました。

我が家の話ですが、母が長野から今は北方領土の歯舞(大臣さん「はぼまい」ですよ)群島の多楽島へ養女に来たのは24歳で昭和15年、そこに父が婿入りしたのは昭和18年で郵便局の仕事を、そして長女が生まれる。そこへ終戦後のはずの昭和20年9月にソ連軍が上陸して怒濤の時代が開始しました。

このブログでは、中田勇先生と電話で話した事、その時に驚愕判明した中田先生が少年時代に見かけた戦前の母の若い頃、ソ連軍上陸に伴う多楽島脱出二弾の話、初めて観た色丹島を舞台としたアニメ「ジョバンニの島」とその実際、今に伝わる多楽島脱出の朱色漆塗りお膳セット(4木箱で二十人前)などを連載で書く予定です。

今、母と父の歴史年表(多楽島以降、不思議な事に中田勇先生とリンク)&父母エピソードの作成を急いで取りまとめ中、これは姉の記憶と積極的協力が必須ですが、まだ姉には記憶を掘り起こしてと要請中、電話でのおしゃべりの途中に姉が思い出すことがあるから必須アイテムは長電話、一番の必須アイテムは表ソフトです、母と父に関連した重要人物を横に配置し、縦は年月日、それに結婚、誕生とか、出会い、仕事・就職、住所とか、大きな出来事とかを記載していくと、不明な点も明らかとなり、これしかないなという推理の落着点が見つかることも多々ありました。

何せ体験証言者で記憶鮮明という人は少ないし、私の父母のような戦前の結婚組はほとんどの人が亡くなっております。突然探索することになった我が家の個人的なことをブログ記事にするつもりは全くないけれど、今回調べて判明した北方領土と戦争に関連した我が家の事は、このブログで連載記事を書きます、私の推理を交えながら。それが中田先生の語り部活動の側面的援助活動になると思うからです。ネットにあった先生の言葉、北方領土問題も駅伝の時代になりました、若い人にタスキを渡すしかない。私は何回目かの電話時にで言いました、先生のタスキに手をかけたつもりではおりますと、約束のようなもの、宣言かな。

私は若くない64歳のおじさんだけど、先生は今年に米寿になるそうな…中学生の時には中田先生ってかなり年上と思っていたけど…運動部じゃないから2・3歳違いならともかくも、さすがに先生とタメ口で話はできないけれど、電話で話していて感じたのは年取ると23歳ぐらいの差って、あまり気にならないね、お互いにもう大人同士なんだからという会話、それは今回の調査でソ連軍上陸当時の多楽島の事で知りたいことがあって、面識のない多楽島出身者(終戦時10歳)に突然電話をした時にも感じました。私の色々の質問に解説・回答をいただきました。この一本の電話で私の推理・想像も一応納得したこともありましたし…

というようなことで、母と父の歴史年表&父母エピソードの調査・作成が終了して、関係者へのコピー配付が終わりましたら、ブログ本編の連載スタートとなります。その構想作りと下書きは少しずつ平行して進めておりますが、記事にするからにはインパクトのある構成と書き方の工夫が必要だし、できるだけ多くの人に興味を持って読んでもらわないと北方領土問題について書く私の甲斐が薄れてしまうし、もっともネットはゴミの宝庫ですから、たまたま或るキーワードで検索してくれた時に私のブログが引っかかって読んでもらい何かの参考になったら十分なんですですけど……

では映画の予告と同じですけど、乞うご期待

2016年の今、71年も昔の私も生まれていない1945年当時の「北方領土関連記事の予告」じゃ誰も読んでくれないだろうから、浦沢直樹の漫勉「五十嵐大介」の視聴感想にからめて、この予告記事を書いている次第です。

"71年も昔の私も生まれていない1945年当時"の終戦後に翻弄された「北方領土」の島の庶民に少しは関心を持たれた方、乞うご期待です。私自身が最近急に関心を持って初めて調べて色々推理しましたけど、父母も翻弄された激動の時代でした。関心が持てて興味が湧くのはあくまで父母に関連していることです。亡き父母の体験した「空気感」(時代)を息子の私も共感したいという望みでしょうか?
posted by yumenoya at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする