2/15に次の記事を読んだ。(再掲が少し続きます)
若い高校生などによる掘り起こし活動、聞き取り調査は大きい
★「知らない」一点張りの旧陸軍関係者、高校生に重い口開いた…「登戸研究所」の調査過程を展示 **読売新聞2/15
https://www.yomiuri.co.jp/national/20210214-OYT1T50073/ 同じ日に、北方領土・多楽島の住居地図を検索していたら、
次のニュースがヒット
★これは天晴れ!! 北方四島百科地図 根室高校の地理研究部が30〜40年前に作成**北方領土の話題と最新事情 2021-01-06
https://moto-tomin2sei.hatenablog.com/entry/2021/01/06/150335 これは「北の戦い 北方領土・樺太・千島で|入門 戦争証言アーカイブス|NHK 戦争証言アーカイブス」のトップにこの地図の事が紹介・掲載された事を伝える記事だった。
https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/introduction/kitanotatakai/ 翌日は、根室高校のホームペーージを覗いたけれど、地理研究部はもう無いらしい。
次に「根室高校 地理研究部」で検索したら、
Amazonの北海道根室高等学校地理研究部「北方領土 高校生が聞いた202話」1991/4/1がヒット
そこで地元図書館の蔵書検索をしたら有ったので早速予約
そして借りに行ったのが2/17 (現在まだ読んでいる途中だ)
下段に部顧問である山田豊治先生の「はじめに」の全文を掲載してあるので、是非一読願いたい。
◆山田豊治「はじめに」 へ飛ぶ◆ ←
クリック ※
極論を言えば、↑これだけは読んで欲しい↑ 1985年水晶島を皮切りに1990年択捉島まで足かけ6年間にも亘る調査活動、
部員による元島民からの聞き取り調査の集大成が本書にあたる。
挨拶の仕方、玄関での靴の脱ぎ方など、山田先生も色々と大変だったようです。
構成協力者の吹浦忠正さんの「あいさつ」によると、アンケート調査と全島の地図は紙数の都合で割愛されたとの事。
その地図も今は「北の戦い 北方領土・樺太・千島で|入門 戦争証言アーカイブス|NHK 戦争証言アーカイブス」で紹介されている。
(「アンケート調査」の結果はどこかで紹介されているのだろうか)
(ワープロの原稿ファイルを引き継いでいる人は複数居るはず…)
私は中学の担任・中田勇先生との不思議な縁で
北方領土シリーズ連載を始めることになったけど
とっくの昔に母も父も亡くなっている。
頼みは母から色々聞いていた姉の記憶だけ
でも裏取りというか肉付けする補強材料がなければ単なる憶測になってしまう。
一番参考になった資料は、小島敏郎「郵政人の北方領土」(1995年)
これは小島敏郎さんが北方領土の郵便局関係者を訪ねて聞き取り調査したものを主に編んだもので、ソ連軍上陸時などを伝える証言集にもなっている。
親父の語る部分は読んだ記憶があるものの、当初は、書名も判らず、
千島連盟に電話して、蔵書を調べてもらったが、それらしい書籍は無し。
実家に電話したら即に判明して早速送ってもらった。
今、念のため、千島連盟の北方領土関連資料(図書)をチェックしたら
ちゃんとありましたよ。資料番号は「307」
せめて「郵便局」の付記が必要だね。
聞き慣れない「郵政人」で探す人は極めて少ない。
さらに目次の大項目ぐらいは掲載して欲しい。
話題が少し離れたように感じるかも知れないが
今回話題にしている「北方領土 高校生が聞いた202話」でやろうとしている事はそれだ。
人の検索は様々で、どんなキーワードで検索するかは検索者次第
出汁の旨みとして、かつて最高級品だった北方領土の昆布で検索する人が
北方領土生まれらしい曽祖父母の氏名で検索する若い人が
根室高校地理研究部の部員だった方の息子さんや娘さんが読みたいと検索するかも…
私だって、担任先生の氏名で検索したら、北方領土問題の動画がヒットした。
「北方領土 高校生が聞いた202話」は1991年の発売だから
恐らくかなりの期間、絶版状態なのだろう。
引越しなどで紛失した方もいるだろう
興味を惹くタイトルがあったら、図書館で借りるか、他図書館から取り寄せてもらえば読める。
思うに、統計資料的な書籍は色々あるのだろうが
何かを調べたいと感じた時に欲しいのは生の証言だ。
「NHK 戦争証言アーカイブス」は、いつ頃開始したのかは不明だが、
「北方領土 高校生が聞いた202話」の聞き取り調査は
1985年から1990年に行われたもので、かなり貴重な生声の集成。
調査の時から30年以上も経っているのだから、亡くなった方も多いだろう。
著作権などのことは判らないけど
「日本教育新聞社」がすべてを放棄して「千島連盟」が継承し
ネットで無料電子書籍などとして公開するのが一番だと思う。
元島民が語った生の声は貴重な財産。
生の証言とその思いを語り継ぐ 千島連盟はこれに尽きる
会員でも無いのに 余計な心配だけども
中田先生が宮城大学の学生たちの前で語った「駅伝のタスキ」
宮城大学の学生13名に引率2名を加えた15名での現地視察実施があった時の
宮城大学による報告書にあった中田勇さん講話の結びの言葉を再紹介します。
●平成25年度「北方領土青少年現地視察事業」を実施(2013年)
「・私はもう68年間我慢をしてきました。68年間ずっとマラソンを走ってきました。ゴールに着けるかと思いましたが,どうもたどり着けそうにありません。
・ここからは,マラソンから駅伝に切り換え,たすきを渡さなければならなくなりました。誰がたすきを受け取るのか,それは皆さんです。」
(
とあるサイトにあったPDFファイル記事が今はもう消失になっていたので、最下段に、中田勇さん<講話の概要>の全文を掲載する )
◆中田勇講話概要の全文へ飛ぶ◆ ←
クリック 北方領土の島を知らない戦後生まれ
市内で育ったから晴れてさえいれば毎日見ていた国後島
ソ連に盗られた島という意識はあるものの
北方領土問題という意識はほとんど無しで育った世代
今は、機会があれば、時々発信するようにはしている
「北方領土って何?」「根室って何処にあるの?」
全てはそこから始まる。
関心を持つキッカケになれば と思うだけ
※校正はしっかりやったつもりだけど…ご容赦
氏名や地名に誤記がありましたら指摘をお願いします
速やかに訂正いたします
※位置のズレはご勘弁、テキストMeryでは揃っているのだが
***********************
【
奥付けなど 】
北方領土 高校生が聞いた202話
表紙の惹句 初めて取りあげた 教育現場からの調査報告
著者 北海道根室高等学校地理研究部
指導 山田豊治
構成協力 吹浦忠正・児玉泰子
日本教育新聞社
平成3年4月12日 初版発行
平成3年5月15日 第2刷発行
定価1,200円(本体1,165円)
ISBN:4890550623
奥付までで全273ページ
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【
画像3枚 】表紙、裏表紙、奥付け
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-----------------------
***********************
―リンクで到着― 【
はじめに 】
はじめに
月明かりに青白く光る流氷が海原を覆い、海峡の彼方へと広がっ
ている。よく見ると、氷原の向こうに北方領土水晶島の島影がかす
かに浮かんで見える。
肌を刺す冷たさの中で、納沙布岬で見るこうした清景からは、閉
ざされた海の厳しさだけを感じるのだが、ひとたび目を閉じて思い
をめぐらすと、その流氷の彼方から、弱く小さく、人々のどよめきと
笛の音や太鼓の響きが聞こえてくる。運動会ではしゃぐ子どもの声、
そして、大人たちのコンブを干す労働の姿までも映ってくる。
以前の私なら、同じ冬の夜にこの岬に立っていても、底冷えを感
じるだけで、こうした幻想的な思いはなかったであろう。というの
も、水晶島で暮らした人たちの島への思いを本当の意味で理解して
いなかったからである。
*
私が指導する根室高等学校地理研究部では、この歯舞群島の水晶
島を手始めに、太平洋戦争の敗戦時まで北方領土で暮らした人たち
を対象に聞き取り調査を行い、島民の回想を物語としてまとめてき
た。
1985年に水晶島、翌年はこの島に続く勇留・秋勇留・多楽・春苅
の四島、87年に歯舞群島の中で一番大きかった志発島、88年に美し
い景観の色丹島、89年には7,000人以上の日本人が住んでいた国後
島、そして昨年は北方領土最大の島択捉島へと調査を進めてきた。
こうして、年ごとに集録した話を、一話300字前後の短編にしたが、
その数は、約90人からの聞き取りで202話にも達した。
これらの回想物語は、昨年の択捉島民からの聞き取り調査をもっ
て一応の完結を見たのである。最後の択捉島編は、折しも戦後45年
目にして実現した択捉島の墓参りと重なり、例年にも増してマスコ
ミの注目をひいた。
*
今回、『新樹会』の事務局長・吹浦忠正氏と、領土返還運動の推進
者として中央で活躍している児玉泰子さんのご協力を得て、これら、
根室高等学校地理研究部の北方領土調査研究が一冊の本として出版
されることになった。
*
根室高等学校に地理研究部ができて今年で15年になるが、当時私
は、地理の授業の中で郷土根室を題材にとりあげることが多く、そ
のことがきっかけとなり「地理研」というサークルが結成された。
当初は、野外巡検と称して山野に出掛けることが多かった。また、
「一年一研究」として、これまでも幾つかの地域調査を進めてきた
が、中でも古老の話が貴重であることを知った。それは、根室半島
の歴史調査の中で古老からの聞き取りを行っていた時、訪ねたいと
思っていた老人が病床に伏していたり、すでに亡くなっていること
に気づき、もう5年早くこの調査を計画していたらと痛感したから
である。
部創設以来の8年間は、根室半島に題材を求めての研究であった
が、千島歯舞群島居住者連盟の報告で戦後40年間に旧島民の3分の
1が他界していることを知り、島民からの開き取り調査を急ぐこと
にした。
*
北方領土旧島民の生活はどうであったか。いま、だれかがそのこ
とと取り組まなければ、島民の生きざまや島への思いが消滅してし
まうと感じたからである。こうした私の思いは、聞き取り調査にた
ずさわった生徒の純真な心にも通じた。
*
「何としても、もう一度、おらが島の土を踏んでみてぇ、おら――
今でも前浜の夢を見る」「忘れろったって忘れられるもんでねえ、島
をとられて晦しい……」
と、断ちがたい島への思いを涙ながらに語る老人もいて、今まで
何も知らなかった生徒の心を痛烈に打った。
この老人にとって島は掛けがえのない故郷なのだ。この人たちの
生きているうちに何としても島を返還させたい。今しばらく元気で
待っていてください。そんな願いが生徒の中に芽生えていった。
*
戦後45年たった今、引き揚げてきた約1万7,000人の旧島民のう
ち、既に、この世を去った3分の1以上の方は、そのほとんどが島
への思いの深い高齢者であっただけに残念でならない。
人の生命は待っていてくれない。まずは、生存者のうちの高齢者
から、島での体験や郷愁を一話でも多く記録し、次の世代に伝えた
いと思うようになった。
家庭にあっても親子の対話不足、親子の断絶が問題視される現在、
ましてや核家族化が進行する中で、生徒たちが果たして80歳を超え
る高齢者と対話を通して調査を進めることができるであろうか、不
安はあった。
しかし、私の心配をよそに生徒たちは、「高齢者ほど貴重な体験を
聞ける」と意気込んで取材を続けてくれた。時には、「そんな昔のこ
とを突然聞かれても」と協力してもらえないこともあった。
一軒一軒の訪問に、挨拶の仕方、調査目的の紹介、玄関での靴の
脱ぎ方、聞き取り調査の進め方、長居せずに、またの機会に出直す
などの事前指導、聞いてきた話を短編の一話にまとめる作業、いつ・
どこで・だれが・なにを・なぜ・どんなに、という内容表現の点検
とタイトル付け・イラストの考案・物語の配列・ワープロ打ち・印
刷と製本、これら順を追っての活動を生徒間の協力作業を通して島
ごとに回想物語として作成してきた。
*
産卵期に、折り重なって川をさかのぼるサケ・マスの話。川の岸
辺で人と熊が隣り合わせてサケを捕獲した話。年間、捕鯨頭数が100
頭を超える会社が4つもあって「百頭祝い」で打ち上げをした話。
秀峰爺々岳登山の話。落差120メートルものラッキベツ滝の話。択
捉島がトドとオロロン鳥の島だった話など、北方領土ならではの逸
話も多かった。
さらに、部活動としては、歴史年表づくりや各島の立体模型づく
り、島の様子がひと目でわかる縮尺5,000分の1から5万分の1の各
島の百科地図作成と取り組んできた。また、この間、旧島民とその
ニ世および観光客を対象に3回にわたって領土返還・ソ連観につい
ての意識調査も行ってきた。
*
部活動の15年間、特に北方領土研究と取り組んできた後半の6年
間を顧みて、本当に、素晴らしい生徒との出会いであったことと、
この指導に惜しみない協力と援助を下さった根室高等学校の教職員
に深く感謝している。この間、また新聞・テレビ・雑誌を通しての
報道で地域理解が一層得られたこをなど、すべての好意に感謝した
い。
第一弾として、6年間の北方領土研究シリーズは一応の完結を見
た。しかし、これがすべてではない。今また、新年度からの活動に
向けて新たな取り組みが統いている。根室高等学校地理研究部の先
輩・後輩の絆を力強く感じるのである。
*
全国的視野に立ってみると、旧島民の圧倒的多数が1日も早い島
の復帰を望むのに対し、一般の人、特に若い世代の領土返還への関
心は薄く、意識の低調と無関心さを感じさせられる。このことは、
北方領土返還連動の原点・根室でもいえることである。
次代を担う若者に伝える教育の手立てや現在の返還運動のあり方
を正したい。
*
ソ連におけペレストロィカ、グラスノスチによる内外政策の転換、
東欧諸国の民主化のうねり、米ソの冷戦体制の緩和など、世界は大
きく変わりつつある。今春のゴルバチョフ・ソ連大統領の訪日は、
返還運動を盛り上げるうえで、またとないチャンスである。これを
機に、全国民の世論を一層喚起し、大返還運動を展開したい。
45年間、張りつめて動かなかった流氷が融け、日ソ間の平和の海
明けが来ることを祈念し、本刊発行にあたっての挨拶とする。
1991年3月
根室高等学校教諭
山田豊治
**********************************************
【
あいさつ 】
ごあいさつ
自らも今日北方領土といわれている歯舞諸島のーつ志発島で生ま
れ、4島の返還をライフ・ワークとしている児玉泰子さんから、北
海道根室高等学校地理研究部がまとめた「北方領土研究シリーズ」
を手渡され、早速、拝見した時の感動は、今も忘れられない。
先輩・後輩が力を合わせ、6年間にわたって行った研究成果を自
らまとめたものである。時代と世代を超えた聞き書きが実に手際良
ぐまとめられており、かつてない成果となっている。
スポーツの世界ではよく、“超高校級”などという表現を用いるよ
うだが、この根室高等学校地理研の研究はこの言葉がぴったりのも
のと思う。これに携わった高校生たちに拍手を送りたいし、送って
ほしい。
また指導に当たってこられた山田豊治先生をはじめ関係の諸先生
のご尽力にも深く敬意を表したい。特に、山田先生が本書の「はじ
めに」で述べておられるように、この研究活動を通じてさまざまな
研究の手法、礼儀を学び、実践されたことは、担当した生徒たちの
将来にも少なからざる教育的な効果を上げたに違いあるまい。
*
北方領土の戦前の様子については、もちろん、ほかに専門書や調
査報告書などがある。昭和14(1939)年から3年間にわたって北海
道千島調査所が行った総合調査をまとめた『千島調査書』はその最
たるものであり、戦後のものでは昭和47(1972)年に沖縄・北方対
策庁が刊行した『北方地域総合実態調査書』や平成2(1990)年に
社団法人千島歯舞諸島居住者連盟が上梓した『元島民が語る北方四
島(行政・産業・ソ連占領編)』などがある。
これらは、いずれも行政や有力団体が中心になり学者や専門家を
動員しての大掛かりなもので、充実した内容ではあるが、本書に満
ちあふれている読者への訴えかけや感動には少々欠けるものがある
ように思われる。それだけに、高校生の手になるこの研究は、これ
までとは違って、ぜひとも公刊されるべき意義があり、特に、同世
代の若い人たちにぜひ、読んでほしいと思ったので、参画したので
あった。
*
この本は“生涯一教師”として根室高校の教壇のみに立ち続けて
きた山田豊治先生の定年退職の日に間に合って刊行された。
世に「〇〇教授退官記念論文集」などと称し、弟子や関係者の論
文を華麗に並べたものがあるが、本書は、地域の教育に献身してき
た山田先生にとって、こうした大論文集にも匹敵する“宝物”であ
ろう。読者とともに、私が初めて原著に接しだ時の感動を分かち合
いたいものである。
*
ワープロでまとめた地理研の報告書には、このほかアンケート調
査や住民の居住状況を示した地図などもあったが、紙数の都合でこ
れらは割愛させてもらった。・
*
最後に、地理研に集まった高校生たちと指導教師のご努カに改め
て敬意を表し、本書の出版にご尽力くださった日本教育新聞社の市
村知雄出版局長に深甚なる謝意を表したい。
吹浦忠正
**********************************************
【
目次 】
はじめに 3
ごあいさつ 8
第1章 北方領土とはどんなところ 19
[水晶島]納沙布岬からすぐ見える 20
[勇留島]人より馬が多い島 23
[秋勇留島]樹木のない海藻の宝庫 26
[春苅島]キツネの島に家一軒 27
[多楽島]島全体が放牧地 28
[志発島]歯舞群島最大の島 31
[色丹島]急崖が海に迫る景勝地 33
[国後島]盛んだった経済活動 37
歴史と人びとの暮らし 40
北方領土各島との比較 41
[択捉島]沖縄本島の2倍以上 42
第2章 地理・自然編 45
1.国立公園候補だった色丹島(色丹島)46
2.女性的な美しさを持つ島・色丹(色丹島)47
3.姿まて映った鏡湾=i色丹島)48
4.豊かな温泉郷・国後(国後島)49
5.断崖絶壁の西海岸(国後島)50
6.爺々岳登山(国後島)51
7,人跡未踏の大森林(国後島)52
8.サケが集まるソコボイの滝(国後島)53
9.島一番の難所念佛坂=i国後島)54
10.材木岩と弁慶(国後島)55
11.春しか登れなかった散布岳(択捉島)56
12.壮大なラッキベツの滝(択捉島)57
13.セセキの温泉(択捉島)58
14.択捉の四季(択捉島)59
15.色丹の四季(色丹島)60
16.願いがかなった共栄橋(水晶島)61
17.草原を彩る美しい草花(水晶島)62
18.マリモで天気予報(択捉島)63
19.傘代わりにもなった巨大フキ(国後島)64
20.アトサヌプリのマツタケ(択捉島)65
21.島まで聞こえた納沙布の霧笛(水晶島)66
22.命綱の通い船(水晶島)67
23.能登呂橋はアサリ橋(色丹島)68
24.難所で名高い針金橋(択捉島)69
25.「ごんば殺し」に「えんろく泣かせ」(択捉島)70
26.念願の橋完成(志発島)72
27.オロロン鳥の島・択捉(択捉島)74
28.エトピリカのご難(秋勇留島)75
29.夜のウミウ捕り(水晶島)76
30.「馬にばっかり乗って」(択捉島)77
31.家族同様の馬との生活(色丹島)78
32.役に立った馬の存在(勇留島)79
33.大雪で馬が死ぬ(国後島)80
34.野生化した島の馬(水晶島)81
35.馬を殺した警察官(水晶島)82
36.軍馬飼育の盛んな島(色丹島)83
37.2,000頭の馬の大放牧(国後島)84
38.流氷を渡ってきたキツネ(志発島)85
39.たった1軒の島の生活(春苅島)86
40.豪決なサケ・マス捕り(択捉島)87
41.ウルモベツ湖のベニザケ(択捉島)88
42.鮭の皮で作った「ケリ」(択捉島)89
43.国後一の音根別川(国後島)90
44.沼の主ィトウを捕らえた(択捉島)91
45.トドの山越え(択捉島)92
46.一度に300頭ものトド狩り(択捉島)93
47.大ダコとトドの一騎打ち(志発島)94
48.太い棒で脳天を(秋勇留島)95
49.猟銃やダイナマイトまで(国後島)96
50.無謀なトツカリ狩り(択捉島)97
51.熊やトツカリの肉も食料に(国後島)98
52.熊撃ちの名人・春松さん(国後島)99
53.熊にやられた熊撃ちの名人(択捉島)100
54.撃たれた熊が飛びかかって?(国後島)101
第3章 産業編 103
55.鯨求めて五島列島から(色丹島)104
56.捕鯨の盛んだった択捉島(択捉島)105
57.腐敗鯨のガス爆発(色丹島)106
58.大きかった力ニ缶工場(志発島)107
59.アメリカで評判のカ二缶詰(国後島)108
60.今の2倍の貝柱(志発島)109
61.女工さん中心の缶詰工場(勇留島)110
82.平均30メートルものコンブ(多楽島)111
63.コンブは主に中国へ(秋勇留島)112
64.コンガ検査員の目をごまかす(志発島)113
65.大型番屋での暮らし(水晶島)114
66.コンブ漁民の生活 115
67.辛さに耐えた女の労働(志発島)116
68.朝の2時から(多楽島)117
69.若い大黒柱(多楽島)118
70.千島海苔の作り方(秋勇留島)119
71.質の良かった泊の寒天(国後島)120
72.栖原角平衛と択捉(択捉島)121
73.『女工節』で眠気をはらし(択捉島)122
74.勘定をごまかすあくどい商法(択捉島)124
75.捕鯨会社誘致で発電所(択捉島)125
76.金、銅、硫黄の鉱山(国後島)126
77.宝の島に夢を抱いて(水晶島)127
78.富山出身が半数以上(志発島)128
79.島の商店(多楽島)129
80.中国からの物売りも(多楽島)130
第4章 暮らしと子ども編 131
81.親子同然の島の人たち(勇留島)132
82.あけっぴろげな島の生活(国後島)133
83.一番のごちそうは大エビ(水晶島)134
84.海鳥の肉や卵は食料に(国後島)135
85.「室」に貯蔵した越冬野菜(国後島)136
86.海草と仲よL.(水晶島)137
87.豊富だった木の実や山菜(択捉島)138
88.米以外の食料品は自給(色丹島)139
89.択捉の珍料理(択捉島)140
90.大事にされた薬草おばさん(水晶島)142
91.不便な冬の生活(水晶島)143
92.元気な島の子どもたち(色丹島)144
93.蘂取の子どもの遊び(択捉島)145
94.「春苅島の王子」(春苅島)146
95.「流氷遊び」(択捉島)147
96.豪快な「マス捕りごっこ」(国後島)148
97.古丹消の「磯遊び」(国後島)149
98.「戦争ごっこ」(勇留島)巧0
99.鳥寄せの鳥(択捉島)151
100.雨雨ふれふれ(勇留島)巧2
101.丈夫でたくまい子どもたち(水晶島)153
102.現代っ子にはとても(多楽島)154
103.四季の遊び(志発島)155
104.楽しみだった根室行き(春苅島)150
105.よく働いた子どもたち(水晶島)157
106.5、6年生は「頼りになる存在」(択捉島)158
107.荒れた手(色丹島)159
108.1人から始まった小学校(勇留島)160
109.「単級複式」の小学校(水晶島)161
110.よく歩いた島の子どもたち(国後島)162
111.恐怖の登下校(志発島)163
112.初めての寄宿舎制度(志発島)164
113.正月の餅つき(色丹島〕165
114.正月の遊び(秋勇留島)166
115.盛り上がった「草競馬」(志発島)167
116.持ち馬自慢の「草競馬」(国後島)168
117.神社再建で練り歩き(勇留島)169
118.ヤンヤの喝采深夜まで(志発島)170
119.根室からの屋台も(水晶島)171
120.おいしかった干しバナナ(志発島)172
121.島をあげての運動会(多楽島)173
122.韋駄天の高岩兄弟(志発島)174
123.声を限りの応援で(択捉島)175
124.強豪ぞろいの相撲大会(水晶島)176
125.「名物父ちゃん」中村さん(多楽島)177
126.とうとう負けた湊屋さん(多楽島)178
127.春を待つ(多楽島)179
128.頼りになる青年団(水晶島)180
129.青年団と青年学校(多楽島)181
130.海難救助も青年団が(水晶島)182
131.島の娯楽(色丹島)183
132.フキでくるんで蒸し焼き魚に(国後島)184
133.豪快だった「カルタ取り」(水晶島)185
134.景勝地でのデート(勇留島)186
135.色丹松どろぼう(色丹島)107
136.なぞの骸骨(択捉島)180
137.キツネに化かされた話(国後島)189
138.佐渡からの仏像(水晶島)190
139.正楽寺の仏像(水晶島)191
140.3年がかりの仏像安置(国後島)192
141.人食い? 大ダコ(色丹島)193
142.捨てられた出稼ぎ者(志発島)194
143.年に一度の大騒ぎ:海難事故(秋勇留島)195
144.「岩手丸」の遭難(国後島)190
145.漁師の「親方殺人事件」(勇留島)197
146.トイレ殺入事件(志発島)198
147.情事にからんだ殺人事件(水晶島)199
148.異変が続くチタルベウス(国後島)200
149.厳しい仕打ちに耐えかねて(択捉島)202
第5章 戦中・戦後編 203
150.単冠湾に連合艦隊集結(択捉島)204
151.過酷な飛行場建設工事(択捉島)205
152.馬橇に乗って軍艦見学(択捉島〕200
153.日本軍漁撈班(択捉島)207
154.帰らざる兵士(志発島)208
155.手紙1つで銃後の花嫁(多楽島)209
156.年に一度は軍事演習(択捉島)210
157.すさまじかった合同演習(多楽島)211
158.授業中のタコつぼ掘り(勇留島)212
150.身長足りずに「誠心報国隊」(多楽島)213
160.日本軍の隊長との激論(志発島)214
161.「来た! 日本の潜水艦」は米潜だった(択捉島)215
162.便利になった無線(志発島)216
163.島から見えた根室空襲(志発島)217
164.最後の砦(多楽島)218
165.島中に赤旗が(色丹島)219
166.「このバ力ヤロー!!」(多楽島}220
107.男装した女たち(勇留島)221
168.技法が違う家づくり(色丹島)222
169.ソ連兵からの詰問(国後島〕224
170.ソ連兵による強盗殺人(択捉島)225
171.ソ連兵、前村長を射殺(国後島)226
172.逃亡捕虜を銃殺したソ連軍(色丹島)227
173.銃殺寸前(多楽島)228
174.ソ連兵を殴った話(択捉島)230
175.「なぜ負けたんだ」(択捉島)231
176.メチルを飲んだソ連兵(志発島)232
177.羅針盤のアルコールまで(色丹島)233
178.強制労働に服した人も(色丹島)234
179.ソ連兵との盆踊り(色丹島)235
180.親切だったソ連将校(国後島)236
181.「カピターンに言うぞ」(志発島)238
182.どぶろく≠ニの物々交換(国後島)239
183.ソ連軍の映画(色丹島)240
184.乗馬術巧みなソ連兵(国後島)241
185.数学は万国共通(色丹島)242
186.「知らない」ということで…(択捉島)243
187.ソ連兵と結婚した娘さん(択捉島)244
188.ソ連の子どもと一緒の学校(択捉島)245
189.恐怖心から山奥へ(勇留島)246
190.「逃げるんでねーんだ!」(多楽島)247
191.島に残った3軒の生活(多楽島)248
182.最後に残った20軒(水晶島)250
193.島からの逃亡(志発島)251
194.運命の大時化(多楽島)252
195.真夜中の脱走(国後島)253
106.帰っで来た「伊勢丸」(色丹島)254
197.わが子の遺体を背負って(国後島)256
198.樺太回りの引き揚げ船(水晶島}257
199.引き揚げ船の中での産声(択捉島)258
200.「大日本恵登呂府」の標柱(択捉島)259
201.古釜布市街「89年墓参報告I」(国後島)260
202.古釜布の墓地「89年墓参報告II」(国後島)261
島別聞き取り調査協力者と調査担当部員 262
**********************************************
【
島別聞き取り調査協力者と調査担当部員 】
(※聞き取り調査協力者の「現在の居住地」は(※)書きが無ければ根室市)
(※調査担当部員の氏名は省いた)
[
水晶島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
税庫前 隅田時雄 大正4年
〃 隅田サキ 大正5年
〃 森 馨 明治42年
ワカサマタ 舛潟喜一郎 明治36年
モシリケシ 能登源一 明治41年
ムシリケシ 菊池キエ 昭和5年
トツカリモシリ 高杉長次郎 明治44年
三角 大橋照吉 明治41年
ボツキゼンベイ 木村与三 大正8年
◇調査担当部員
2年 8名、1年 7名
◇指導担当教論 山田豊治
--------------------------------
[
多楽島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
ガンバライソ 河田竹次郎 明治43年
〃 河田ハツ 大正3年
〃 木野本定夫 昭和2年
〃 高橋実 昭和2年
〃 東狐猛 昭和2年
〃 芦崎昭治 昭和3年
温根泊 早川豊夫 明治43年
ポンカガマ 能登清 大正14年
[
勇留島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
チボロセ 寺島勘弥 昭和11年
トロモイ 菊地清正 明治35年
〃 菊地正俊 大正14年
[
秋勇留島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
オダモイ 新浜ヒサ 明治44年
トツカリイソ 今村力松 大正4年
[
春苅島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
ハルカリモリシ 竹内春雄 昭和9年
◇調査(多楽島、勇留島、秋勇留島、春苅島)担当部員
3年 5名、2年 8名、1年 5名
◇指導担当教論 山田豊治
--------------------------------
[
志発島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
相泊 小倉宗治 大正12年
〃 上浦一夫 大正2年
〃 菊田菊次郎 明治38年
西浦泊 腰昭二 昭和2年
モトモシリ 清水政雄 大正11年
〃 高岩省三 大正4年
税庫 高本政雄 明治41年
西浦泊 竹内豊 昭和4年
植別 斉藤栄子 昭和2年
東前 新田ミヨ 明治44年
トツカリ岬 浜松義雄 大正11年
ホツキリイソ 水口正一 大正5年
相泊 飯沢国夫 昭和10年
◇調査担当部員
3年 5名、2年 6名、1年 3名
◇指導担当教諭 山田豊治 佐藤弘
--------------------------------
[
色丹島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
ノトロ 荒俣正一 明治38年
泊 飯作幸勇 大正8年
ケッキョウ 井田豊作 明治39年
チボイ 石井喜義 大正9年
イネモシリ 不破アイ 大正5年
斜古丹 得能宏 昭和9年
〃 石井徳雄 大正10年
〃 西田貞夫 昭和10年
〃 鈴木登志 大正10年
〃 西田英男 昭和3年
〃 瀬谷タケ 昭和15年
ノトロ 新浜義美 大正14年
斜古丹 布川栄吉 大正3年(※中標津町)
◇調査担当部員
3年 6名、2年 3名、1年 2名
◇指導担当教諭 山田豊治 菅原雅之
--------------------------------
[
国後島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
(
泊村 )
セセキ 梅津孝二 大正14年
〃 鎌田小二郎 大正元年
ボンタルベツ 大上野真一 明治37年
東沸 小田部勇雄 大正9年
中ノ古丹 片岡ケイ 大正10年
沖ノ古丹 野田花 大正12年
古釜布 楠木正悦 明治45年
〃 白新田とし 明治44年
〃 田塚きん 大正4年
〃 六本木兵治 大正13年
植内 加藤健次 大正3年
〃 長滝太郎 大正11年
古丹消 徳永賢治 昭和5年
ウラロクシベツ 山本マツ 明治32年
(
留夜別村 )
オダイバケ 赤間一郎 大正13年
セセキ 板倉寛 昭和2年
乳呑路 永塚良 大正13年
〃 野呂源吾 明治38年
〃 野呂登 大正4年
オキツウス 照井二郎 大正14年
チフンベツ 谷川徳松 明治44年
植内 部川鶴之輔 明治40年
イブンイソ 矢萩茂男 大正10年
◇調査担当部員
3年 3名、2年 1名、1年 3名
◇指導担当教諭 山田豊治
菅原雅之
◇イラスト指導 川村徹
--------------------------------
[
択捉島 ]
◇聞き取り調査協力者
島での住所 氏名 生年
(
留別村 )
留別 池浦孝秀 大正2年
〃 能戸定次郎 明治44年
〃 澤田隆悦 大正15年(※中標津町)
入里節 佐藤良三 大正7年
マタルザル 鹿川登 大正5年
〃 浜屋忠一 明治27年
天寧 森崎ヱツ 大正15年
カシコシモイ 佐藤幸栄 明治42年
〃 佐藤きく 大正4年
(
蘂取村 )
蘂取 岩田宏一 昭和4年
〃 岩田昇三 昭和7年(※中標津町)
(
紗那村 )
別飛 森田徳次郎 大正12年(※別海町)
〃 品川姓一 大正10年(※中標津町)
◇調査担当部員
2年 3名、1年 8名
◇指導担当教諭 山田豊治
菅原雅之
林幸利
◇イラスト指導 川村徹
**********************
[
指導者紹介 ]
山田豊治(やまだとよはる)
昭和5年6月29日 和歌山県御坊市生まれ
北海道教育大学(旭川)卒
根室高等学校38年在職
北海道地理学会々員
※なお
「会報-北海道地理学会」の訃報コーナー によると
https://www.hokkaidogeog.org/pub/gs/gs75/gs75_16.pdf 「本会会貝・山田豊治先生は,2001年2月4日,心不全の
ため逝去された。山田先生は,長年,根室高等学校で教鞭
を執られ,また北方地域研究会を主宰され,高校地理部顧
問としても生徒部員と一緒に北方領土の旧住民からの当時
の国後・択捉島地誌復原の聞き取り調査,根室半島の旧陸
軍建設・トーチカの分布と形態調査,風蓮湖の自然地理調
査など,多彩な地域研究と高校地理教育に活躍された。
本会にその成果の一部を寄稿したい旨のお手紙が届いた
矢先の計報であり,大変惜しまれてならない。
ここに,謹んで先生のご冥福をお祈りします。」
**********************
構成協力者である吹浦忠正さんによる
「北方領土 高校生が聞いた202話」の紹介記事
★吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草
高校生が聞いた202話 [2007年06月26日(Tue)]
https://blog.canpan.info/fukiura/archive/2236 [2007年06月26日(Tue)]から [2007年07月06日(Fri)]まで
https://blog.canpan.info/fukiura/category_4/50 [2007年07月09日(Mon)]
https://blog.canpan.info/fukiura/archive/2324 **********************
以上で「北方領土 高校生が聞いた202話」分は終了 **********************
本日知ったデジタル紙芝居
「この北方領土デジタル紙芝居は、歯舞群島多楽島出身の故 能登与市(のとよいち)氏が、生前、多楽島での生活の様子を書き残した絵画と文章を原作として、北方領土「島民の会」である「多楽会」の協力を得て、北海道北方領土対策根室地域本部が新たに編纂し、制作したものです」
★北方領土デジタル紙芝居(音声入版)**2013/03/12
https://youtu.be/S-2JKOCP5_A VIDEO ※耳の少し悪い個人的な感想としては、
字幕方式でナレーターの解説内容を流して欲しい。
ナレーションの原稿はあるのだから、字幕の作成手間はあまりかからない。
高齢の元島民も字幕の方が紙芝居を見易いはず
**********************
―リンクで到着― 【
中田勇さんによる講話の概要 (宮城大学による報告書から) 】
(※平成25年度「北方領土青少年現地視察事業」(2013年))
(※PDFの報告ファイルがネットから消えたようなので、保存してあったPDFを使った)
(※宮城大学の文字起こししてくれた方に感謝です)
まず、色丹島出身の元島民である中田勇さんからお話を伺いました。
<講話の概要> ・皆さんは宮城県の大学生ということですが、宮城県と北方領土とは深い関わりがあります。全盛期には宮城県から母船式さけます漁業の船団がやってきて、花咲港には番屋もありました。 ・私は1928年(昭和3年)に色丹島の太平洋側にある大島で生まれました。 ・色丹島では小学校は斜古丹にしかなかったので、私は、根室に住んでいた祖父の家に住まわせてもらいながら根室の学校に通いました。 ・色丹島には夏・冬休みに帰るのですが、ノト口の港から山越えをしながら父母のもとに帰りました。 ・さて、いつから北方領土問題が始まったのか、それは、日ソの長い歴史を学ばなければなりません。8月15日が終戦の日ですが、その1週間前にソ連は日本との条約を破棄して対日参戦し、8月18日未明に占守島に侵攻してきたのが始まりです。 ・当時の島の住民はソ連運の侵攻に対して大変驚きました。特に、若い女性は顔に墨を塗り、男性用の服を身にまとい、髪を短く切り、防空壕や屋根裏などに隠れました。 ・ソ運という国は共産主義国家で、軍人たちには私財というものがありませんでした。 そこでソ連兵は島民達の財産(時計、万年筆など)を略奪していきました。 ・島民達はそのような中、ソ運軍から逃げようとしました。夜の闇にまぎれて音を立てないように船で逃げるのですが、一隻の船が逃げようとすると他の人々も自分達の船を引いて逃げてくれといってきます。何隻もの船を引っ張っていくのですが、そのうち、海が時化(しけ)てしまい.転覆することもあったので多くの方が亡くなりました。 ・当時の島の人口約1万7千人のうちおよそ8千人は逃げました。しかし、択捉島の島民達は逃げられませんでした。なぜなら北海道本土までは遠かったこと、そして国後水道の海流が速いため、小舟などでは渡ってこれなかったためです。 ・その他の島でも逃げられなかった人達はいましたが、その多くは船を持っていなかったり、しばらく我慢すればソ運軍はいなくなるだろうと思い残った人もいました。 ・私の家は色丹島で30人位の人を雇い大きな2隻の船で漁業をしていました。 ・しかし、戦時中は若い男性は徴兵されてしまい漁はできませんでした。女性や子供たちがのりや昆布を取って慎ましく生活していました。 ・私の家には12棟ほど小屋があり、戦時中は日本軍が利用していましたが、終戦後はソ運に没収されてしまいました。私の父母たちは逃げられず、その後、約2年間にわたりソ連軍と一緒の生活をしなければなりませんでした。 ・先に島を逃げ出した人々は根室には着いたものの、7月の大空襲後の根室では食料も住居もなく、辛い生活をしなければなりませんでした。 ・その後、島民たちの引き揚げが始まったのですが、北海道本土ではなく樺太の真岡に送られました。引き揚げ者の中には食料もなく栄養失調で死んだ方も多くいました。 ・島民達は樺太に留め置かれ、最終的に函館に到着しました。 ・私は、戦後に教員となり、根室管内の各地で教鞭を執りました。やはり、大事なのは学問、勉強だと思いました。 ・私はもう68年間我慢をしてきました。68年間ずっとマラソンを走ってきました。 ゴールに着けるかと思いましたがどうもたどり着けそうにありません。 ・ここからはマラソンから駅伝に切り換え、たすきを渡さなければならなくなりました。誰がたすきを受け取るのか、それは皆さんです。 中田さんの強い思いが現れた非常に熱のこもった講話でした。参加者達のみならず全国の多くの若者がたすきを受け取り、ゴールを目指していかなければなりません。
********************************
今日知ったテクニック
★acrobat reader DC画面右側のツールパネルを非表示にするやり方
https://office-obata.com/report/memorandum/post-4098/ 右側を非表示にしないと、txtファイルのチェックが出来ないから
最後に一言
2016年に保存してあったPDFファイルが今日役に立った
いつまでも在ると思うな大事な記事 保存せよ
文字情報ならば、たかが数十KB
やっぱり言いたい
政治家・政治屋は落選すれば居なくなる
ところが外務省は国境が無くならない限りずっと存続するんだよ
あまり期待しないようにはしてるけど、腹立たしい
(再掲)
★北方領土問題「いかなる形でも議論できない」 憲法理由に・・・ロシア外務省報道官**TBS NEWS_2/19
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4203030.html ※ここまで言われて、外務省と自民党は対岸の火事のように傍観し続けるの!?
************************************************
《3/11深夜追記》
北方領土は 母と父の住んでいた多楽島であり
そこで生まれた姉の 母が兄を身籠った地でもある。
中学校3年間担任だった中田先生の生まれ育ったのが色丹島
そんな縁もあって北方領土問題に着目するようになり
こうやってブログでも取り上げるようになったけれど…
3月11日が近づくと東北沖大地震の記事が増えてくる。
あの時は、ちょうど隣のビルの地下にある食品スーパーで買い物している最中だった。
買い物袋を下げてボロビル3階の部屋に戻ったら、
床に積んである本のヤマがいくつか崩れていた。
どうしたのかなと思いながら、テレビを点けたら
大地震のニュースが流れていた。
仙台には、盛岡には学生時代の友だちがいる。
福島には北24条の飲み屋で馴染みになった飲み友だちもいる……
1人でテレビを視ているのが不安になり、
北24条の飲み屋へ移動してテレビを注視した。
そしたら、大津波を伝える映像
あのドでかいコンテナがビールケースのように浮かんで押し寄せていた。
鉄道貨車や輸送船タンカーに積む あのコンテナが 波に翻弄されていたー
あれから10年が経とうとしている
今日の深夜に読んだ記事
★「なぜ自分が撮ってしまったのか」 津波を生中継した元NHKカメラマンは 今も葛藤の中で生きる【東日本大震災】**ホフポスト3/10
https://www.huffingtonpost.jp/entry/hokoitakashi_jp_60469963c5b6e29350b272b5 「建物内にとめていた他社のヘリの中には、揺れで機体同士がぶつかり、壊れているものもあった。
被害を免れたNHKのヘリに乗り込んだ鉾井さん。混乱の中、離陸した」
「黒い塊は、容赦なく家や車をのみこんでいた。津波の渦に別の角度から来た津波が重なり、さらに大きな塊となって襲いかかる。木材、船、瓦礫、あらゆるものが簡単に押し流されていく。
理解が追いつかなかった。ただ、映像は生中継されている」
最近「#あれから私は」というハッシュタグの記事をいくつか読んだけれど
震災で翻弄されることになった哀しくって重い話ばかりなものだから
「#あれから私は」の記事は避けるようになっていた。
人間っていうのは、自分が体験した事には関心度が高いから
あの北海道の大地震&大停電は自分に起きた事で鮮明だ。
だから、一番手っ取り早いブログで記事を書いている。
また、親たちが住んでいた島にソ連軍が上陸して逃げ出したことは聞いており
引揚者として長く住居も定職も無く、かなり貧乏暮しだったとも聞いている。
ロスケに盗られた島は濃霧が無ければ、港の沖合にいつも鎮座していた。
かといって当時、北方領土問題を子どもに意識させる環境には無かった。
でも、どこかで身近な問題だと思うからブログにも書くようになった。
ところが、あの神戸も、仙台も福島も、熊本も…
色んな大きい天災、人災は全国各地で多数起きている。
身近に体験か 経験としないと 傍観者で済んでしまうのが現実
最近起きた事さえ そうなのだから
北方領土問題なんていう 75年も前の事件に関心を持ってくれ
というのには かなり無理があると思う。
引揚者の二世、三世さえも関心度、意識度が薄れている時に
高校地理研究部の顧問・山田豊治先生が率先してまとまった
1991年発行「北方領土 高校生が聞いた202話」日本教育新聞社
今から30年前に山田先生が危惧していたように
「一般の人、特に若い世代の領土返還への関心は薄く、意識の低調と無関心さを感じさせられる。このことは、北方領土返還連動の原点・根室でもいえることである」
という環境は、更に悪化していると言えるだろう。
引揚者の二世、三世が語らなかったら、誰が語るんだ。
父や母、祖父や祖母の思いを誰が語り継ぐんだ。
私は悪い教育環境で育ったようで
北方領土問題に全く意識無しに高校を卒業してしまった。
大学のクラスで初めて会した最初の自己紹介の時には
「日本史を選択した方はご存知と思うが、ラクスマンが来航した根室」
要するにその時に「北方領土」に触れる意識(知識)は全くゼロだった。
だからサラリーマンになっても、飲んでいる時に
「実はさぁ、親は北方領土の引揚者で…」と語ることは一切無かった。
ソ連軍が上陸し、後に島から樺太に移動・抑留されて…」ということは
2016年にネットの動画で中田先生語る話を聴いて初めて知った。
前にも書いたと思うが、鳴海公園は戦後に出来たらしいということぐらい。
米軍による根室空襲があって街は焼け野原となり、
復興する時に火災の延焼を防ぐために公園が出来たらしいとは割と新しい知識。
だから初めて見る戦前の鳴海公園がまだ無い根室住居地図で、
中田先生の住んでいた家を捜すのには少し苦労してしまった。
おそらく今なら、郷土史を学ぶ時間が小学校からあるのだろう。
ただ私の習った高校の日本史は大正時代ぐらいで終わってしまった。
今になって勘ぐれば、満州進出とかには触れたくなかったのかな、という気もする。
個人的には、最初に"幕末&明治維新から現代"をやり、
それから縄文・弥生に入るべきだと思う。
今の現代史ルーツを真っ先に学ばずに、何で"日本史"と云えるのだ!!
だから大学受験では苦労するし
オジサンになってから近代史の本を読む必要もあった。
かなり脱線してしまったけれど
地元に住む人間と巣立った人間に問題意識が無ければ…
高齢者の引揚者は、やがて全員亡くなってしまう。
二世、三世がもう少し語らなかったら、どうなるのかねぇー
(全国のみんなは 身近なことで 精一杯だ)
そんな済し崩し展開は、プーチン大統領の思う壺
外務省は何かを考えているのだろうかー??
政治家は選挙で落選するか引退するだろうけど
核となる外務省に ポリシーはないのかな!!
オレはもう期待しないけどさー
----------------------
と投稿したところで、寝る前に
エンゼルス戦のことを思い出した。
敵地の2回表 先頭はスズキ捕手で四球??、犠打で生き内野安打…追加点で2対0になった
大谷くんは居ないようだから寝よう
*******************
《3/16追記》
個人的には、卒業式の日に「赤飯」給食は在りえて良いと思う。
ただ常識的には、今日は何の日なのか、知っているの!!
と騒ぐのがマスコミだから、公務員が事前に配慮するのは、
普通(常識)だろうという意見もあるだろうけれど
巣立つ日を、未来を据えた"目出度い日"と捉える目線も必要だ
"正解"は無いのだから、「赤飯」の学校があったってイイじゃない
今を生き明日に向かう場面なのだから
広い各地で色んな捉え方をするのは、当たり前だ
忘れている事を 誰も責められない 個々の心までは束縛できない
世の中 そんなものよー それでイイのさ 個々の胸の内なんだから
★横浜市立小、3・11の給食に赤飯 「不適切」と直前に差し替え**毎日新聞3/16
https://mainichi.jp/articles/20210316/k00/00m/040/252000c