ブログに何も書かないうちに、先日パソコンが壊れて全てが消えてしまいました。
かつて慣れたソフトにはまだ見つからないものもありますけれど、
また色んな友達・知人のメールアドレスも全て消失したこともあるけれど、
ずっと不要な色んなソフトもインストールしたまんまだったので、
これがスリムな環境になるチャンスだったと考えることにします。
脳卒中についての書き込みはホント久しぶりなので、
まとまりはないだろうけれど、想いつくままに記すこととします。
以前もリハビリの関連で書いていることだが、ちょっと繰り返すと、
例えば「か」が頭につく名称単語を思い浮かぶだけ挙げよというものや
短い三面記事的な話や御伽噺のような話を聞いた後に、
ポイントをまとめてどんな話だったかを説明せよというものなど
いわゆる“記憶”能力に関連するリハビリのテストがあった。
転院した病院のリハビリでは当初かなり難しかったこんな単純なテストも
段々と特別の苦労も無くこなせるようになっていた。
思うに脳内出血した左脳やクモ膜下出血による前頭前野への影響のためか、
手術した東徳洲会病院で日記ノートをつけ始めた当初は、
使いこなせる浮かぶ言葉は数少ないし、言い回しの表現は幼いし、
もちろん正しい漢字も書けないことも多く、そんな手術後の時期だから、
自分がどんな立場で入院することとなったのかも良く判っておらず、
だから世の中の事については全く関心も無かったので、
テレビを視たいと思ったことは全然無く、新聞を読みたいとも思わなかった。
私はネット古本屋をやっているくらいだから、活字人間であり、
ベッドでの読書は手放せないのが普通だったのだけれど、
その頃はマンガはもちろん小説やエッセイなどの本を欲しいと思ったことも無かった。
そのマンガもエッセイも新聞も読む機会はあったけれど、
ちっとも面白く感じなかったので、習慣復活の機縁にはなりませんでした。
読書の代わりが、思いついたときにつづったノートでした。
こんな時期に土日を除く毎日会って話していたのは、
リハビリの担当の若い三人であった。
看護婦さんとは特に話すことも無かったので、
今考えてもリハビリの三人には色んな刺激を与えてもらいました。
リハビリのため転院した時計台記念病院では、
病院の5階の廊下を散歩コースにみたてて、
朝食の前と夕食の後に15分程度だったか毎日運動のつもりで歩いていたけれど、
その途中にある溜まり場のテレビを時々覗くようになったのが
入院前の記憶にあるテレビから遠ざかって一ヶ月経ってからです。
プロ野球のニュースが流れているとちょっと気になったようです。
転院してからは姉が差し入れしてくれた脳卒中の本を読み始め、
外出が出来るようになった時にまず行きたいと思ったのは古本のブック・オフ。
最初に買ったのは、SF小説のアンソロジーで、
まず読んだのが、半村良の「ダンボール箱」だったと記憶しています。
一週間に一度、ブック・オフへ行くのが楽しみになっていました。
じっくりテレビをみたのは、ダルビッシュと田中投手の初対決でした。
特に読書には、まず舞台設定を理解して筋を忘れずに先を想像しながら
楽しむという“記憶”能力が必要だったようで、
この頃がやっと活字人間に少しずつ戻っていた時期のようです。
リハビリの担当の若い人たちがずっと心配していたのは、
退院した後、独り身の私がちゃんと食事つくりなどの生活を出来るか、
問題なく仕事はこなせるのかなどということだったようです。
本人は特に問題があるなという意識はありませんでしたが、
退院後の最初の大きな行事は、
手術をしてくれた東徳洲会病院の西先生の診察を受けに行くことでした。
頭がまだまだぼーっとしているぞという意識はもちろんありましたので、
まず先生の所へ行き、次に看護婦さんの詰め所へ寄って、
最後にリハビリの三人の顔を見に行くぞと
頭のなかで事前のシミュレーションを繰り返して出発しました。
そのとき、リハビリの時計台記念病院から預かった書類は、
看護婦さんに渡すものだと思い込んでいましたが、
先生いわく、病院から何か渡すものは預かっていないかと言われ、
前段の書類を思い出し渡したところ、
リハビリの所へも寄るのなら、これをついでに届けてくれと
私が持参した書類の一部を渡されました。
これがシミュレーションに無かった頼まれ事の発生でした。
看護婦さんの所へ行き、会いたかった人たちの顔も見て、
リハビリの三人全員にも会え、一路地下鉄を目指しているときに、
預かった書類のことを思い出してまた戻ったというチョンボの次第です。
チョンボは色々ありました。
やっとYahoo!オークションへまとめて出品したときのこと。
当方は当然、送料は落札者の負担で代金は前払いだと思い込んでいましたが、
なんと“送料は出品者負担”という出品設定の大ミスを犯していて、
すでに入札の入っているものはしようがありませんが、
それら以外は全てあわてて出品を取り消してから、再出品いたしました。
本文の説明では“送料は落札者負担”となっているももの
一番目立つところで“送料は出品者負担”となっていました。
価格の安い本だと送料こちら負担で赤字になったものもあります。
出品のチョンボでは、画像のアドレスを間違って記載したため、
全てに本の画像のないことになってしまい、
これもまた出品料をまた払っての再出品と相成りました。
発送時のチョンボもありました。
クロネコメール便の集荷時には当然出荷の伝票が必要なのに、
注意力が足りないのか、集荷担当に伝票は?と訊かれるまで、
用意していないことに気づきませんでした。
かつてなら考えられないこんなチョンボが何度もありました。
これも後遺症のひとつだったのでしょう。
今はもうこんなミスはありませんけれど…
話は変わり、今年に入り2月に母と父の法事が実家でありました。
その時の前夜に義姉から初めて聞いたのですが、
手術が終わって出てきた時、ベッドに縛り付けられており、
そのことに私が非常に怒っていたらしく、
「てめえら…」と看護婦さんたちに暴言を吐いていたようです。
それから4月に現在東京に住む飲み友達に会う機会がありましたが、
母親が脳卒中だったようで、手術後は人格が変わっていたと聞きました。
それで思い出したのは、転院するために退院するときに、
婦長さんから、こんなに元気になってと言われましたけど、
こんな暴言のことも背景にあったから、
経過も良くてこんな普通の大人に戻ったという感慨もあったのかも知れません。
前段で書いた行動のシミュレーションもした退院後の診察のとき、
先生から、看護婦さんのところに顔を見せるのかと訊かれましたけど、
この人格崩壊のことがあった故なのだとあらためて思いました。
その友達に会ったとき別の共通友達も一緒でしたが、
まだ4人部屋へ移る前に見舞いをしてくれたのですけれど、
そのときはまだベッドに縛り付けられていた時期で、
これほどいてくれないかと一応頼んだようです。
即ダメかと諦めたようですけれど。
見舞いに来てくれた記憶はあるのですが、
頼んだ記憶は全くながったので、ちょっとびっくりしました。
さて今の状態はどうかと言いますと、
リハビリの時計台記念病院でも毎日感じていた
“もやっ”という表現しか浮かばない感覚に付きまとわれています。
靄のような薄い膜を通してしか外も内も意識できないような感覚、
いつもちょっとボーしているような感じと言えばよいのでしょうか。
4週に一度の恒例の診察のとき、呼ばれるのを待っているときに、
そんな“もやっ”感が強くなっていたので、
病院そのものが暖かすぎるためかと当時は思っていました。
それが気候が段々暖かくなって薄着でも変な感覚が消えないので、
先生に訊いたことがあります。
手術で体調に変化が起きることもあり、
首の後ろがこっているので、その所為ではないかということでした。
5月末の診察時には、CTスキャンを受けて、説明がありましたけれど、
内出血の白い痕はほとんど判らないようになっており、
検査では良くなっているのは間違いないのでしょう。
しかし検査や数値では表せない“もやっ”という自覚があるのも確かで、
脳やリハビリの本にはまだまだ説明されていないこともあるのでしょうから、
脳で出血あり、そして頭蓋骨を開けて手術したということは、
変な感覚がまだあっても何ら不思議でないような気もします。
手術したのが昨年の8月3日ですから、まだまだ回復している時期なのでしょう。
注意力散漫などとも、じっくり付き合っていくしかありません。
以前、先生に言われましたっけ。
クモ膜下出血で助かり、内出血でも助かった。
二度もツキを使っているのだから、気をつけるように。