★(はじめに)
退院はしたけれど、休止中のブログは、いったい何日になったら、
クモ膜下出血などをメインとしたブログとして再スタートするのか?
こんなにも遅れてしまったことに一番驚き、そして戸惑っているのは、この私です。
かつてはブログの記事を書くときは、
ただ気ままに文章を綴っていただけなのですが、
後遺症なのか退院後は、特別な意識を持たざるを得ないハメに陥ってしまいました。
下書きとして書いた文章を読み返す都度、
表現などで気にかかる点がいくつも出てきてしまい、
その結果、またもやの“一部の書き直し”とまたかの“文章の再構成”とが始まるという
繰り返しの連続になってしまいました。
今回は復活の第一回目なので、書きたいことも色々あり過ぎて、
だからうまくまとまらないのだろう、というのは手前勝手の解釈にすぎず、
自分の文章能力が現にこのように落ちたからなのだと実感しています。
(先に謝っておきます。誤字・脱字も、読みにくいところや内容重複もご容赦を)
★(手術と入院生活と退院の概略)
8/2(木曜)の夜、居酒屋のママさんたちの連携プレーもあって119番へ電話要請。
8/3(金曜)の深夜、救急車の救助チームによりボロ・マンションから助け出され、
姉の考えも考慮し救急病院として「札幌東徳洲会病院」へ搬送。
(駆けつけた姉は深刻ではない軽い症状と感じていたらしいが)
搬送された救急病院での検査で“クモ膜下出血”であることが判明。
(私のような手術という例もありますから、タクシーつもりの119番は止めましょう)
8/3付けの「手術の説明と同意書」の控えから抜粋すると、
病名は「クモ膜下出血、破裂脳動脈瘤」
手術名は「開頭術、クリッピング術、必要なら脳室ドレナージ」
手術に伴う危険性は「再破裂による急変、麻痺、意識障害などの起こる可能性、感染などの危険性があります」
手術時の麻酔方法は「全身麻酔」
そして手術予定日時は「8月3日午前10時30分」となっています。
(8/2から8/3にかけての救出と搬送については、ママさんたちや姉の解説もずっと後に聴いており、
そのときの記憶らしいものをいくつか断片的に思い出してもいますけれど、
姉が“クモ膜下出血”と告げられた頃からの記憶は全くありません。)
日付は不明だが8/17の部屋移動の数日前から三人によるリハビリが開始。
(“リハビリ”が何のことかも知らないままで始まった)
8/17(金)離れ的二人部屋から四人部屋へ引越し。日記書きのスタート。
(書いた本人にも解読不能の擬似日本語による書き言葉で開始された日記風ノート)
8/24(金)回復期リハビリのため転院するらしく、姉の案内で時計台記念病院と打合せ。
(当時まだリハビリがよく判らず、また転院といっても全て姉任せでした)
8/30(木)札幌東徳洲会病院から時計台記念病院へ転院(二人部屋)。
(朝昼夕食は全員が食堂に集まり決められた席でいただくというシステム)
10/10(水)時計台記念病院を退院しボロ・マンションへ戻る。
以上がクモ膜下出血の手術から、後に転院して退院するまでの外面的な流れだ。
★(手術後の自分と札幌東徳洲会病院の看護婦さんたち)
自分の手術のことについては全く知らないまま、
手術後は、ベッドの中から、身内や居酒屋の仲間たちに会っていたようです。
嬉しさと懐かしさのような気持ちでいたのでしょうけれど、
日本語の言葉数は極端に少なく、その使い方もまだヘタであり、
その当時自分自身のことをどれぐらい自覚していたのやら?
手術後の割と早い時期のもので、少し変わった古い記憶が二つあります。
昔の記憶もあやふやな時期だったと思いますが、
自分の中で何度かイメージとして思い出しているので、
結果的に記憶として今も残っているのではないかと思います。
その1つは夢の記憶であり、少し複雑でちょっと長い話なので、
かいつまんで紹介します(記憶から少しずつ消え去るエピソードも増加中)。
入院しベッド生活をしている私のプロの付き添い人は、
姉妹らしい若い女性が二人でしたけれど、
冷たい対応であったことから困っていたところ、
若い男性の付添い人が増えることとなり、今度は良い人と思っていましたが、
その男性はだんだんと正体を現して、
ついには三人一緒になって私をいじめるようになりました。
ある日、男がベッドに私を乗せたまま病室から出て移動し、
地下のゴミ収集場所のようなところへたどりつきました。
そしてそこのドアを開け、真っ暗な奥へベッドごと私を押し込みました。
真っ暗なトンネル(?)を奥へ奥へと移動させられると(自走ベルトの上のベッドか?)、
やがて微かな明かりが見えはじめ、人たちが現れ始めました。
その作業所(別ビルの地下)に居た人たちは、“よく来た”という態度で、
私を引っ張りトンネルの奥から助けてくれました。
そこからビルの上へと移動させられたところは、インド(?)の病院の病室であり、
これで怖い三人からは逃れることができたとホッとしているのが私です。
(夢の付添い人は、看護婦と医者ではないかとずっと感じています。ごめんなさい)
もう1つは深夜の出来事だと思われます。
ある夜、目が覚めると、両腕がベッドの横のパイプに縛られていました。
(「身体拘束(抑制)同意書」にあるよう、患者を守るための拘束行為)
そんな状態に気づいた私がまず試したことは、
この腕が自由にならないものか、もっとゆるくならないかと
体(特に上半身)をよじり両腕に力を入れることでした。
(看護婦さんへの迷惑・反抗という動機は皆無。単なる自由への憧れか)
そのときはたまたま固定の仕方に問題があったようで、
少しゆるい右腕の方で格闘を始めたところ、
右腕がついに自由になったので、点滴用の注射針もはずし、
次は左腕の方もだと取り掛かりましたが、
右腕の解放でもう疲れ果てていたようで寝てしまったようです。
同じ夜また目が覚めたときには、両腕がしっかり縛られており、
これで再度捕らえられ戦いは終わったのだ、と感じていたようです。
ついでに、夢か現か判然としませんが、救急車で搬入された時らしいイメージがあります。
搬入時にまず置かれた控え室で働いていたのは、男性のお医者さんと看護婦の人たちであり、
寝ぼけ眼で周りを見るベッドの上の私は、てきぱき仕事をする人たちを頼もしげに感じていました。
当時深夜とはいえ8月初めで暖かかったと思いますが、
少しひんやりとした部屋だなあと感じた記憶があります。
このように看護婦さんやお医者さんをとても頼もしく思った一方で、
そのこともあってか逆に、患者の甘えや弱さを許さないという恐さも感じていたので、
結果的にこの恐い面が、いじめられるという変な夢を見ることにつながったのでは…
ところで病院でのトイレの時期段階をリンクさせてみるのは、面白いと思いました。
変な話ですけれど、(オムツから?)ベッド横の大きなオマルに昇格しました。
大きい方を心配するほど食べてはいなかったと思うけれど、
ちゃんとしたオジさんとしては、オマルでしっかりせねばと感じていたのでしょう。
そしてオマルの次にランクアップし、点滴スタンドを押して歩き、
少し離れた看護婦の詰め所で合図をしてから、奥のトイレへ行くことに。
そのときには私も正式なトイレだけに、少し一人前に近づいた気持ちでいました。
それから少し経ってから、私もやっと一人前の患者になれたからなのか、
二人部屋から普通の四人部屋(トイレは二つの部屋の間)への移動が命ぜられました。
私の記憶の中には、今日は引越しよと仕切っている看護婦さんがいます。
四人部屋へ移ってからですが、その看護婦さんと少し会話したことがありました。
前の部屋にいるときに変な夢を見たことがあり、
その夢の中では、看護婦さんが、囚人たちの看守人のように思えたことがあったと言いましたら、
彼女は当然のように返してくれました、いつも憎まれる役柄ばっかりよと…
悪役に思われる損な役回りは普通のことよということなのでしょうか。
さきに紹介したように、看護婦さんが悪役に見えた、変な夢を見ていた時期もありましたけれど、
四人部屋の頃からというか自分を少しずつ取り戻してからは、ホントに感謝しております。
札幌東徳洲会病院の、特に6階の看護婦の皆さん、お世話になりました。
ところで8/3手術の直前に、後ろで縛っていた長い髪を坊主にしてくれたのは誰なんでしょう?
★(急性期リハビリと日本語)
二人部屋に居た頃、時たま身内や見舞い客と拙い会話をしていたのだろうと思います。
私の頭の中にあるのは、まだ数の少ない単純な言葉であり、
複雑なものを考えるのに向く熟語や構文はまだ存在していなかったからなのか、
自分そのものについて自問することの無い、幼い段階だったように思います。
トイレがやっと一人前になったこともあるのか、
若い三人(かなり後に知るリハビリ)が突然現れて、交代で迎え来てくれることになりました。
点滴スタンドを確保した私を車イスに乗せて、施設のある階へ連れて行ってくれました。
(8/19(日)点滴から解放されたのでその翌日からは歩いてリハビリ会場へ)
やっと自分というものについて、少し意識して考え始めたこともあるのか、
日本語での会話も可能そうな“遊び友達”が三人も登場したようで、
それぞれの迎えを楽しみに待つようになりました。
日本語というのはまだまだ自分の自由にならない難しい言葉だけれども、
これをもっと自由に使いこなせれば、
本当のオレにもっと近づくことも可能だという気がしており、
そう期待しつつ、この三人が今近くにいるならば…と感じていたようです。
そしてリハビリの象徴的な出来事がありました。
連れて行かれた教室に置いてあった鏡の中には私が写っており、
坊主頭で手術後のキズが大きく残っている自分との初対面でした。
鏡の中に写っている者は本当にオレなんだろうか?
手術のために髪を短く切った姿が写っているこの人物は、
何だかどうもしっくり来ないけれど、オレそのもので間違いないのだろうか?
自分が誰なのか今ひとつ自信を持てないこともあったので、
鏡に写る自分の視線からは眼を逸らさないようにじっと視つめ返しておりました。
入院してから初めて見た鏡のなかの自分に戸惑ってもいたようです。
リハビリ開始の数日後、17日(金)に4人部屋へ引っ越したときから、
姉の用意してくれたノートに向き合って、
思ったことを、思いついたことを何でも書くぞという作業が始まりました。
そしてその翌日の18日(土)には、たまたま飲み屋の仲間たちと同業の古本屋が訪問してくれ、
久々に大勢で懐かしい話題に盛り上がり、楽しい会話をすることが出来ました。
この時期にはほとんどの思い出的な記憶は元に戻っていたようで、
こんな話題で話し合うことに何らの問題も無かったようです。
(かなり後にこの日のことを古本屋の好友堂さんに確認したのだが、内容的な問題は何も無かったと)
しかし、前日17日から書き始めていたノートはどんな状態なのかというと、
誤字は当然で、何と言う熟語を書きたかったのか判読不能の漢字やひらがな、
自分でも変な文章だと思うからなのか、言い方を変えて書き直して続けるが、
やはり変てこな言い回しになってしまい、結果的に意味不明の繰り返しだというように、
書くということは、日本語の全く新たな面(脳の言語の新機能面)との出会いのようです。
まだ日本語にならぬものをノートに書きなぐることであろうとも、
意味を成さない文字も文章も繰り返し書くことで成長するかのように、
自分自身と語り合い、かつ自分についての理解を深めたいと考えていたようです。
このように、リハビリの三人との交流(会話とゲーム)が刺激となり、
次に始まった日記風ノートでの文章と自問思考の練習が肉付けするような形で、
私の“日本語”は再スタートしたようです。
★(私の気になること)
手術後に最初に意識したのは、まともに使いこなせていない日本語そのものでした。
当初の貧弱だった私の日本語能力も、リハビリでの会話・訓練が始まったこともあり、
かなり急速にレベルアップ(能力復活)しただろうとは思います。
ただ“急速に”というのは私の思い上がりだったようで、
転院してから思い知らされたのは、こんなことも出来ないのかと驚かされる
自分の劣っていた日本語の力でした。
ここで転院した病院のベッドで、読んだ本から一部紹介すると、
フロイド・E・ブルーム他「脳の探検 全2巻」(講談社、ブルーバックス、元版)
(難しい箇所は飛ばし飛ばしで読んだ本書の第8章の「思考と意識」から引用)
・「私たちは意識に現れた物ごとを記述するために言語を使う」
・「言語は人間が経験を組み立てる基本的な手段です。そのため、意識は言語に依存するのです。」
・「私たちが意識として経験するのは脳に起こる出来事のうち、脳の言語システムを介して処理されたものだけです。」
これらの文章は“日本語”でずっと悶々としていた私にとって、衝撃的な内容でした。
ままならぬ“日本語”と私全体を仕切っている大脳と
格闘せざるを得ないなと感じた理由がここにあるようです。
さて一番の問題である“クモ膜下出血”についての本を読み、少し具体的に知ったのは、
転院後のちょうど手術から一ヶ月経った頃でした。
ある時期はまるで無関心というか、自分自身の病気について無頓着とも思える変な時期もありましたが、
段々と気になり始め、退院後は脳卒中や大脳についての解説書を読み、
またクモ膜下出血や後遺症に関連するネットのサイトも調べたり、
2病院でお世話になったリハビリについての本も購入するなど、
関連分野への関心は増殖しているようです。
なかでも、オレに何が起き、どんな手術がなされ、大脳皮質などへの影響はどうだったのか。
自分に起きた事すべてについてを知りたいと考えるようになりました。
“脳動脈瘤の破裂”と“クモ膜下出血”も、やっと少しは理解できるようになったので、
手術の主治医の先生に会うときには、色々質問して、是非教えてもらいたいと思っています。
私の中で実際に何が起きたのか、そして今何が行われているのかを知ることが、
今ある自分と対峙することにつながるんだと思います。
また今の私自身が色んな後遺症の影響下にあるわけで、
軽微とは言え、視野と聴力に一部障害のあることも判明しました。
数値化するこれら眼と耳とに比べると、精神的な障害についての説明は難しくなりますが、
今ある記憶や能力などの大切なことも後遺症の元となることも、私の大脳のなかで起こったのです。
以前の自分との連続性を一部失ったのではとも思えた手術後の“オジサン坊や”だった私、
過去の色んな記憶やほとんどの能力を取り戻したと思わえる今の自分、
かつてあったけれど今は一部失われたかに見える色んな能力、
現在新たな結びつきを強めようとしているかもしれない神経細胞とシナプス…
これからは大脳と言語についての話題周辺をずっと動くことになりそうです。
★(ブログについて)
転院が決まった頃は札幌東徳洲会病院のリハビリの若い人たちに、
そして転院した後は時計台記念病院で会ったリハビリの大勢の若い人たちにも、
退院したらブログで病気とリハビリなどについて書くつもりなので、
その時はよろしく、と言いながらか、または心の中で唱えながら、
この部屋に戻ってきました。
以前のブログであれば、書き終わった文章をもう一度読み返し、
内容に特に問題が無くて、第三者に意味は通じるだろうということなら、
それがブログの記事のゴーサインで、即アップロード(公開)になっていました。
たまに何か投稿しなくっちゃ、ネタは何かなかったかな、
そうだあれで行こう、よし出来たからアップだ、
という軽いノリで書いて投稿していましたから、
書くことでこんなにも意識して悩んでしまうことになるなんて…。
こんなブログならば、まず判りやすい文章かどうかが問題になるでしょう。
ところが実際に書いている私の能力はどうかというと、かなり落ちています。
恐らく昔の、病気前の文章と比べてもらったら、一目瞭然かも知れません。
文章と文章のつながりとか、文章の集まりの構成というか、
論理的な結びつけ方(文法)といったら良いのか、どう表現すべきなのか判りませんが、
以前意識もせずに出来たことが、今は意識しても出来ません。
昨日再読した文書に大事な指摘があったので、それを紹介します。
時計台記念病院のリハビリの臨床心理士・Gさんから退院する直前に渡されたもので、
それまでの私に対する色んな検査・テストなどの結果を踏まえて、
文書「高次脳機能の特徴と対応点」で4点が指摘されています。
そのひとつが「順序立てて考えたり、抽象的に考える事が苦手になっている」とし、
「遂行機能障害」と呼んでいます。
また「要領よく伝えたり、文章を作ったりする事が苦手になっている」という
軽度の「失語症」があげられ、さきの「遂行機能障害」と相まることも危惧されています。
まさに上の二点は、私がずっと悩んでいたブログでの文章作成のことも指摘しているのだと思います。
残念なことだけれど、ブログを前のようには書けなくなったことを後遺症として認め、
文章作りがこのように拙くとも、このレベルをスタートラインとするしかないようです。
そこで「はじめに」に書いた“書き直し”は、今回はもうヤメとしました。
やっとアキラメがついたということでしょうか。
★(終わりに)
次からの話題は毎回もっと絞ったテーマ別になるだろうと思いますが、
そうなると今の私の文章力でも対応できるかも知れません。
今回は第一回目ということで、記憶の少ない初期の時期を取り上げたので、
看護婦さんやお医者さんの登場も少し多くなりましたが、
次回は“リハビリ”関連で行こうと思っています。