2018年11月23日

★マンガ家・山下和美さん、若年性脳梗塞で両目の右側に「視野欠損」、私の場合…《12/10追記》映画は字幕版を好むように変化《2021/2/23追記》柳家花緑「識字障害」

貸本屋時代には愉しく読ませてもらった「天才 柳沢教授の生活」
当時は雑誌「モーニング」の連載も読んでいた。
下記のYahoo!ニュースで「視野欠損」のことを初めて知った。

私もクモ膜下出血で右眼の右側の一部が「視野欠損」だった。
リハビリ病院に入院していた時に一度、
療法士と一緒に外出して札幌大通り界隈をウロウロした。
そして独りでの外出のOKが出て最初に行ったのは
当時6丁目にあったブックオフだった。
他の人もそうだと思うが、何か面白い本は無いかなとなると、
マンガ家・小説家の「あいうえお」順に左から右側へ背を確認しながら棚を横移動する。
この時に何度か右側のお客さんに接触した!!!!
人間の視界は180度くらいあるはずだから、
特に意識しなくとも古本屋で右側の客に接触することは無いはず…
なのに数度も接触したものだから、そんな自分に少し驚きながら「こめんなさい」と…
昔からずっと古本屋巡りが趣味だったのに…ちょっと変だ!!

眼が少し変な事を療法士に申告し眼科の検査となった。
その結果、右眼の右下側に視野欠損があることが判明
正面を視ていると、右眼の右下側に近づけた自分の手が見えない…
顔を右側に向けるか、視線を右側にずらすと、何も問題も無いのだが
突然右側から現れる人などに気付くのは遅れてしまう。

その時から今も、右側から急に近づいてくる自転車が恐い。
だから小路から歩道に出る時などには一瞬立ち止まって
右方向を確認するようになった。
それは混んだ店内でも同じで
特に子どもは予測不能の動きをすることがあるから、要注意だ!!

普段はパソコンに向かっているので
正面を視ている分には何も不都合は無いけど
外出した時には少し右側に気を付けている。

久々に孫の「華子ちゃん」に逢いたくなった……風邪のネコにも…

★「脳梗塞になって、漫画家しか進む道がなくなった」――視野欠損で描き続ける決意***Yahoo!ニュース11/23
https://news.yahoo.co.jp/feature/1148
「だが21歳のとき、若年性脳梗塞を発症し、後遺症で両目の視野の右側に見えない部分ができた。「視野欠損」だ」
「例えば、エレベーターから降りたときに、右側から早足の人が近付いてくると、突然、見えない場所から人が現れるので分からないんですよ。私からすると、急に視野に人が入ってくるのでよけられません。ぶつかった相手の人が怒ってくると、ひたすら謝ります。〈見えない障がい〉という言葉がありますが、外側から見ただけでは分からないという意味で、まさにそういう感じなんです」


※昨日の夕方から、雪で真っ白 本格的な冬に突入
今年は灯油が高い……
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《12/10追記》映画は字幕版を好むように変化
以前に書いたことだけど
クモ膜下出血のリハビリ病院を退院してから、耳が少し変だぞ、と感じ、
手術をした病院の耳鼻科で調べてもらった。
聴覚の検査は4段階の高低の音が聴こえているかを左右別に調べるもので、
左右ともに上から二つ目の高音が全く聴こえていなかった。
若い時に右耳が少し聴こえづらいことに気付き、電話の受話器は左耳にあてるようになった。
右手でメモするから受話器は左耳でに不都合は無かったけど…
クモ膜下出血が原因かどうかは判らなかったが両耳で……

この頃からなのかは不明だが、外国映画の観賞方法が変わってしまった。
従来はずっと"吹替え版"を好んでいた。
字幕というのは表示できる文字数に制限があるから、
情報量の多さでは"吹替え版"に敵わない。
また耳で会話を聴いていれば、画面から目を逸らしても、ストーリーの展開についていくのに何も問題は無かった。
ところが耳が少し悪いとなると、日本語吹替えの会話内容がすんなりと入って来なくなった。
だから、それを自覚してからは、"日本語字幕版"を好むようになった。
当然ながら日本映画でも"日本語字幕版"を視たいと思うように…

それを特に感じた映画は「シン・ゴジラ」
早口での会話が多いものだから、会話内容が不明のまま、
展開の細部を理解しないまま、視続けることに……

歳を取るとともに生じた弊害なのだろうか??
音声情報の処理能力の劣化が進んでいるのか??
スカイプをしていても、"えっ!?"と問いかけることが増えたように思う。
視覚情報である文字では何も困っていない。
この視覚処理能力も年齢とともに衰えていくものなのだろうか??

パソコンのスピーカーの性能に問題があるのかも…
ただ光通信に変えた時、新パソコンを購入したけど、
少し性能の良いスピーカーに替えた。
イヤホンを買ってみるかー
吹替え版を愉しめるかも…
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《2021/2/23追記》
★柳家花緑 ようやく手に入れた「識字障害」という名の止まり木**婦人公論2019年11月08日
https://fujinkoron.jp/articles/-/960
「戦後最年少の22歳で真打ちとなった、落語家の柳家花緑さん。言葉を自在に操る巧みな芸でお客さんを笑わせる姿の裏には、「学習障害」と闘う日々がありました。〈障害〉と診断されてよかったと語る、そのわけは──」
視聴者からのメールで識字障害だと自覚した

先日2/18に大谷翔平くんの記事の取り扱いで
腹が立ち下記ブログで【悪意を感じるYahoo!JAPANニュースTOP】と噛みついた。
http://yumenoya.seesaa.net/article/480095652.html
今回の柳家花緑さん記事はYahoo!ニュースでは「2/23(火) 18:02配信」
ところが本家の婦人公論へ行くと「2019年11月08日」と1年3か月も前の記事
こういう過去の記事を本日記事としてYahoo!ニュースが配信するのは
どういう仕組みから発生するのか 不思議で不可解だ
柳家花緑さん記事は興味深い内容だったから
面白く読ませてもらったけれど……
旧い記事がさも本日の新しい記事の月日時間で配信されるのは
何故なんだろう 
今回の場合は 関連する話題があったから 
ちょっと旧いけど 再掲しましたよ は担当者の適切な選択だと思う
でも 何故 本日配信の新記事のように 見せる必要があるの!?
何か不穏な動機が介在しているかのように 
ゲスの勘繰りの首をもたげてしまう

2017年07月30日

◎119番への救急要請で最近知ったこと(2007年8月クモ膜下出血/救急車の3点セット出動)

2007年に起きたクモ膜下出血&脳内出血については何度も書いた。
●クモ膜下出血とリハビリ、そして後遺症(No.001)***2007年11月13日(これは退院後の最初投稿)
http://yumenoya.seesaa.net/article/394425602.html
がまだ私の知らなかった事が残っていたようで、
今年の5月になって初めて教えてもらったことがあるので、書き残して置く。
それとも聞いたのだが重要なことと思わず忘れてしまったのか?

(命の恩人である)ママの店で飲んでいた時に、
あの時(ちょうど10年前)のことが話題となり、
ママ、それ、初めて聞いたよー!!となった。

以前に書いた事とダブルかも知れないが、私は当時
フランチャイズの居酒屋でバイトをしていた。
バイトの内容はホームページの作成公開、独自メニューの店内ポップ作成、
年末の忘年会及び年度末の歓送迎会シーズンに顧客への案内手紙(値引き券の同封)、
確定申告のための会計帳簿の作成(週毎と月毎に会計伝票等で作業)などなど。

2007年のブログ記事をわざわざ確認していないので、
少しの日付ズレは勘弁してもらうとして、
「今自分に何かが起きたぞ」という自覚が突然あって、
とりあえずベットに向かったのは、
7/31の深夜(12時少し前)、寝酒はまだ始まっていなかった。
普通であれば翌日8/1は、会計作業のため伝票などを受け取りに飲み屋へ行く日
用事があって行くのが一日遅れる場合には、当然その旨を電話連絡していた。

何故なのかは今になっても自分で判らないが、
電話をかけなくっちゃという積極的な行動を起こす意欲は全く無くなっていた。
一度電話が鳴ったので受話器を取ったのだけど、それを落としてしまった。
受話器は古本の連なる高い山々の奥下へ
わざわざ古本の山を崩して受話器を取ろうという意欲も湧かずそのままに…

これは変だぞと思ったのはバイト先の(雇われ)ママ
いつもなら来れない時には事前に電話をくれるのに…
電話の受話器は外れたままだし、熱中症かなとママは思ったそうです。
部屋に居るのは間違いないし……
色んな人(私と懇意な飲み屋、飲み友達)にも相談…
行きつけの飲み屋のママは、友だちのところで飲みつぶれてるんじゃ、と言ったそうな

そしてママは119番へ電話したそうです。
でも119番によると、イザという場合はドアを壊すことになるので、
近親者の了解を取ってくれとのこと(ドア破壊時の復元の保証人が必要だ)
面識はあるけど兄の電話番号を知らなかったママは電話番号案内に…
そこによると同じ苗字が3件あると
その内の一つが名前の最初の文字が同じだったので(それだと思ったそうで)、
その番号を教えてもらい電話
兄貴の了解(保証)が取れたので、正式に119番へ依頼となった。

(8/2の深夜、暦では8/3真っ暗な午前)
私も外の救急車に乗ったところまでの記憶はあるのだが、
ママによると、救急車では氏名、生年月日、住所の質問にちゃんと答えていたと、
ところが着いた救急病院では、もう受け答えができなかったから、
病院の先生によると、クモ膜下出血は病院に着いてからではないか?と。

今年になって初めて知ったのは
1.119番との救急車出動の交渉経過(ドア破壊時の保証が必要)
2.兄貴の電話番号を案内へ問い合わせ&兄貴の了承
3.救急車に乗った時は意識はしっかりしていた

すると7/31夜の「今何かが起きた」は脳内出血だったのかな。

当時の私に積極的に動く(どこかへ電話する)意欲が全く無かったことを思うと、
あのママが変だぞと考えて行動を起こしてくれなかったならば、
私はクモ膜下出血か脳内出血で死んでいただろう。


救急車、パトカー、消防車の3点セット出動
この3台が揃って出動していたらしいことは以前にも書いたと思うが、
朦朧としていた私には3台の車が停まっていたという記憶は無い。
兄貴が札幌に住む姉へ電話をしたのか、
私が救急車に乗った頃、姉が車で駆けつけてくれた。
その姉も救急車、パトカー、消防車の3台には驚いたらしい。
(姉によると、後の通院を考えて「札幌東徳洲会病院」を希望したらしい)

何故3点セットが必要だったかについては、私の推理を。
自動車事故ならば救助のための車を壊す用具も技術も消防署にある。
火災の場合に家屋を壊して避難遅れの人が居ないかを捜索するのは消防車の署員
だが私の場合、本人が、一緒に暮らす家族が救急要請した訳ではないし、
ドアを壊して入室したが誰も居なかったという可能性もある。
ひょっとしたら、病気ではなく犯罪に巻き込まれている可能性も…
またドアのこじ開けに手こづったら、3階の窓から侵入も
当時結構話題になっていたのに硫化水素ガスによる自殺も…

救急車と消防車とは身内だから、第三者の警察も必要となったのでは
ドアの破壊には警察に立ちあってもらわないと。
もしドアを破壊したら、その後の盗難防止は警察がプロだし…
色んな可能性がある時には3点セット出動が普通なのかもと今は思う。
(なお私の場合は、救急車が駆けつけた時に集まった近所の住人が
合鍵を持っている管理人は裏のマンションに住んでいると教えたそうなので
ドアを壊す必要は無かったようだ)

《後にクモ膜下出血が知人二人に》
2012年9月:行きつけスナックのママがクモ膜下出血で亡くなっていたのが発見
 (一人暮らしだったので発見が遅れた。何度もママには長髪をカットしてもらった)
 (月始めにカラオケを唄った時がママとの最後になった)
2014年:行きつけの居酒屋のママがクモ膜下出血で入院
 (手足の痺れといった後遺症は幸い無く元気)
脳梗塞の人は知人にいたが、クモ膜下出血がこんなに身近だとは
どちらのママも酒は飲まないがタバコは嗜む。私は今も両方

スナックのママは独り暮らしで発見が遅かったこともあって、
不審死扱いだったため、通夜と告別式もかなり遅れた。

《手術・リハビリの退院後に変わったこと》
ダシを濃くして塩分を控えめに、色んな野菜をたくさん食べるようになったことだけ
酒もタバコも変わらず

2016年01月14日

脳出血まひ、回復の「道」判明 リハビリ積むと代替神経(ラットの実験で代替の新神経経路を確認)

今日読んだニュース
●脳出血まひ、回復の「道」判明 リハビリ積むと代替神経-朝日新聞デジタル 月舘彩子 2016年1月14日06時24分
http://www.asahi.com/articles/ASJ1D62KSJ1DOIPE02P.html
「脳出血によるまひが、リハビリで改善するメカニズムを、生理学研究所(愛知県岡崎市)と名古屋市立大学の研究チームが動物実験で明らかにした。傷ついた神経に代わり別の神経が新たな経路を作っていた。」
「研究チームの生理研・伊佐正教授は「より効率的なリハビリ法につながる成果だ。電気刺激などで直接この経路を活性化する方法も開発できるかもしれない」と話す。」

クモ膜下出血(軽い脳出血も)で入院したことは何度も書いているが、手術病院から転院したリハビリ病院には手足のマヒしている患者が多数いた。私は視野が狭くなる後遺症(少し耳も悪くなったが後遺症かどうかは不明)があっただけで、マヒは無かった。

入院中からクモ膜下出血、脳卒中、リハビリ、脳機能全般についての本を結構読むようになったし、関係するテレビ番組があると視るようになっていたが、私の拙い理解では、マヒした手足を動かすことが有効なことは経験的に実証されているので、手術後の早い時期からリハビリを始めると。

今回のニュースの「研究チームはラットで実験。まひした前脚を強制的に使わせるリハビリを1週間した結果、脳の運動野から、脳幹の「赤核」と呼ばれる場所へ神経が複数伸びていることが確認された」は、傷つけて前脚をマヒさせたラットのリハビリ強制的実験の研究結果を伝えたもので、拙い理解の私には結構画期的な研究ではないかと感じたので、メモを残しておきます。

2007年11月13日

●クモ膜下出血とリハビリ、そして後遺症(No.001)

★(はじめに)
退院はしたけれど、休止中のブログは、いったい何日になったら、
クモ膜下出血などをメインとしたブログとして再スタートするのか?
こんなにも遅れてしまったことに一番驚き、そして戸惑っているのは、この私です。

かつてはブログの記事を書くときは、
ただ気ままに文章を綴っていただけなのですが、
後遺症なのか退院後は、特別な意識を持たざるを得ないハメに陥ってしまいました。
下書きとして書いた文章を読み返す都度、
表現などで気にかかる点がいくつも出てきてしまい、
その結果、またもやの“一部の書き直し”とまたかの“文章の再構成”とが始まるという
繰り返しの連続になってしまいました。

今回は復活の第一回目なので、書きたいことも色々あり過ぎて、
だからうまくまとまらないのだろう、というのは手前勝手の解釈にすぎず、
自分の文章能力が現にこのように落ちたからなのだと実感しています。
(先に謝っておきます。誤字・脱字も、読みにくいところや内容重複もご容赦を)


★(手術と入院生活と退院の概略)
8/2(木曜)の夜、居酒屋のママさんたちの連携プレーもあって119番へ電話要請。
8/3(金曜)の深夜、救急車の救助チームによりボロ・マンションから助け出され、
姉の考えも考慮し救急病院として「札幌東徳洲会病院」へ搬送。
(駆けつけた姉は深刻ではない軽い症状と感じていたらしいが)
搬送された救急病院での検査で“クモ膜下出血”であることが判明。
(私のような手術という例もありますから、タクシーつもりの119番は止めましょう)

8/3付けの「手術の説明と同意書」の控えから抜粋すると、
病名は「クモ膜下出血、破裂脳動脈瘤」
手術名は「開頭術、クリッピング術、必要なら脳室ドレナージ」
手術に伴う危険性は「再破裂による急変、麻痺、意識障害などの起こる可能性、感染などの危険性があります」
手術時の麻酔方法は「全身麻酔」
そして手術予定日時は「8月3日午前10時30分」となっています。
(8/2から8/3にかけての救出と搬送については、ママさんたちや姉の解説もずっと後に聴いており、
そのときの記憶らしいものをいくつか断片的に思い出してもいますけれど、
姉が“クモ膜下出血”と告げられた頃からの記憶は全くありません。)

日付は不明だが8/17の部屋移動の数日前から三人によるリハビリが開始。
(“リハビリ”が何のことかも知らないままで始まった)
8/17(金)離れ的二人部屋から四人部屋へ引越し。日記書きのスタート。
(書いた本人にも解読不能の擬似日本語による書き言葉で開始された日記風ノート)
8/24(金)回復期リハビリのため転院するらしく、姉の案内で時計台記念病院と打合せ。
(当時まだリハビリがよく判らず、また転院といっても全て姉任せでした)
8/30(木)札幌東徳洲会病院から時計台記念病院へ転院(二人部屋)。
(朝昼夕食は全員が食堂に集まり決められた席でいただくというシステム)
10/10(水)時計台記念病院を退院しボロ・マンションへ戻る。
以上がクモ膜下出血の手術から、後に転院して退院するまでの外面的な流れだ。

★(手術後の自分と札幌東徳洲会病院の看護婦さんたち)
自分の手術のことについては全く知らないまま、
手術後は、ベッドの中から、身内や居酒屋の仲間たちに会っていたようです。
嬉しさと懐かしさのような気持ちでいたのでしょうけれど、
日本語の言葉数は極端に少なく、その使い方もまだヘタであり、
その当時自分自身のことをどれぐらい自覚していたのやら?

手術後の割と早い時期のもので、少し変わった古い記憶が二つあります。
昔の記憶もあやふやな時期だったと思いますが、
自分の中で何度かイメージとして思い出しているので、
結果的に記憶として今も残っているのではないかと思います。

その1つは夢の記憶であり、少し複雑でちょっと長い話なので、
かいつまんで紹介します(記憶から少しずつ消え去るエピソードも増加中)。
入院しベッド生活をしている私のプロの付き添い人は、
姉妹らしい若い女性が二人でしたけれど、
冷たい対応であったことから困っていたところ、
若い男性の付添い人が増えることとなり、今度は良い人と思っていましたが、
その男性はだんだんと正体を現して、
ついには三人一緒になって私をいじめるようになりました。
ある日、男がベッドに私を乗せたまま病室から出て移動し、
地下のゴミ収集場所のようなところへたどりつきました。
そしてそこのドアを開け、真っ暗な奥へベッドごと私を押し込みました。
真っ暗なトンネル(?)を奥へ奥へと移動させられると(自走ベルトの上のベッドか?)、
やがて微かな明かりが見えはじめ、人たちが現れ始めました。
その作業所(別ビルの地下)に居た人たちは、“よく来た”という態度で、
私を引っ張りトンネルの奥から助けてくれました。
そこからビルの上へと移動させられたところは、インド(?)の病院の病室であり、
これで怖い三人からは逃れることができたとホッとしているのが私です。
(夢の付添い人は、看護婦と医者ではないかとずっと感じています。ごめんなさい)

もう1つは深夜の出来事だと思われます。
ある夜、目が覚めると、両腕がベッドの横のパイプに縛られていました。
(「身体拘束(抑制)同意書」にあるよう、患者を守るための拘束行為)
そんな状態に気づいた私がまず試したことは、
この腕が自由にならないものか、もっとゆるくならないかと
体(特に上半身)をよじり両腕に力を入れることでした。
(看護婦さんへの迷惑・反抗という動機は皆無。単なる自由への憧れか)
そのときはたまたま固定の仕方に問題があったようで、
少しゆるい右腕の方で格闘を始めたところ、
右腕がついに自由になったので、点滴用の注射針もはずし、
次は左腕の方もだと取り掛かりましたが、
右腕の解放でもう疲れ果てていたようで寝てしまったようです。
同じ夜また目が覚めたときには、両腕がしっかり縛られており、
これで再度捕らえられ戦いは終わったのだ、と感じていたようです。

ついでに、夢か現か判然としませんが、救急車で搬入された時らしいイメージがあります。
搬入時にまず置かれた控え室で働いていたのは、男性のお医者さんと看護婦の人たちであり、
寝ぼけ眼で周りを見るベッドの上の私は、てきぱき仕事をする人たちを頼もしげに感じていました。
当時深夜とはいえ8月初めで暖かかったと思いますが、
少しひんやりとした部屋だなあと感じた記憶があります。

このように看護婦さんやお医者さんをとても頼もしく思った一方で、
そのこともあってか逆に、患者の甘えや弱さを許さないという恐さも感じていたので、
結果的にこの恐い面が、いじめられるという変な夢を見ることにつながったのでは…

ところで病院でのトイレの時期段階をリンクさせてみるのは、面白いと思いました。
変な話ですけれど、(オムツから?)ベッド横の大きなオマルに昇格しました。
大きい方を心配するほど食べてはいなかったと思うけれど、
ちゃんとしたオジさんとしては、オマルでしっかりせねばと感じていたのでしょう。
そしてオマルの次にランクアップし、点滴スタンドを押して歩き、
少し離れた看護婦の詰め所で合図をしてから、奥のトイレへ行くことに。
そのときには私も正式なトイレだけに、少し一人前に近づいた気持ちでいました。
それから少し経ってから、私もやっと一人前の患者になれたからなのか、
二人部屋から普通の四人部屋(トイレは二つの部屋の間)への移動が命ぜられました。

私の記憶の中には、今日は引越しよと仕切っている看護婦さんがいます。
四人部屋へ移ってからですが、その看護婦さんと少し会話したことがありました。
前の部屋にいるときに変な夢を見たことがあり、
その夢の中では、看護婦さんが、囚人たちの看守人のように思えたことがあったと言いましたら、
彼女は当然のように返してくれました、いつも憎まれる役柄ばっかりよと…
悪役に思われる損な役回りは普通のことよということなのでしょうか。
さきに紹介したように、看護婦さんが悪役に見えた、変な夢を見ていた時期もありましたけれど、
四人部屋の頃からというか自分を少しずつ取り戻してからは、ホントに感謝しております。
札幌東徳洲会病院の、特に6階の看護婦の皆さん、お世話になりました。
ところで8/3手術の直前に、後ろで縛っていた長い髪を坊主にしてくれたのは誰なんでしょう?

★(急性期リハビリと日本語)
二人部屋に居た頃、時たま身内や見舞い客と拙い会話をしていたのだろうと思います。
私の頭の中にあるのは、まだ数の少ない単純な言葉であり、
複雑なものを考えるのに向く熟語や構文はまだ存在していなかったからなのか、
自分そのものについて自問することの無い、幼い段階だったように思います。
トイレがやっと一人前になったこともあるのか、
若い三人(かなり後に知るリハビリ)が突然現れて、交代で迎え来てくれることになりました。
点滴スタンドを確保した私を車イスに乗せて、施設のある階へ連れて行ってくれました。
(8/19(日)点滴から解放されたのでその翌日からは歩いてリハビリ会場へ)

やっと自分というものについて、少し意識して考え始めたこともあるのか、
日本語での会話も可能そうな“遊び友達”が三人も登場したようで、
それぞれの迎えを楽しみに待つようになりました。
日本語というのはまだまだ自分の自由にならない難しい言葉だけれども、
これをもっと自由に使いこなせれば、
本当のオレにもっと近づくことも可能だという気がしており、
そう期待しつつ、この三人が今近くにいるならば…と感じていたようです。

そしてリハビリの象徴的な出来事がありました。
連れて行かれた教室に置いてあった鏡の中には私が写っており、
坊主頭で手術後のキズが大きく残っている自分との初対面でした。
鏡の中に写っている者は本当にオレなんだろうか?
手術のために髪を短く切った姿が写っているこの人物は、
何だかどうもしっくり来ないけれど、オレそのもので間違いないのだろうか?
自分が誰なのか今ひとつ自信を持てないこともあったので、
鏡に写る自分の視線からは眼を逸らさないようにじっと視つめ返しておりました。
入院してから初めて見た鏡のなかの自分に戸惑ってもいたようです。

リハビリ開始の数日後、17日(金)に4人部屋へ引っ越したときから、
姉の用意してくれたノートに向き合って、
思ったことを、思いついたことを何でも書くぞという作業が始まりました。
そしてその翌日の18日(土)には、たまたま飲み屋の仲間たちと同業の古本屋が訪問してくれ、
久々に大勢で懐かしい話題に盛り上がり、楽しい会話をすることが出来ました。
この時期にはほとんどの思い出的な記憶は元に戻っていたようで、
こんな話題で話し合うことに何らの問題も無かったようです。
(かなり後にこの日のことを古本屋の好友堂さんに確認したのだが、内容的な問題は何も無かったと)
しかし、前日17日から書き始めていたノートはどんな状態なのかというと、
誤字は当然で、何と言う熟語を書きたかったのか判読不能の漢字やひらがな、
自分でも変な文章だと思うからなのか、言い方を変えて書き直して続けるが、
やはり変てこな言い回しになってしまい、結果的に意味不明の繰り返しだというように、
書くということは、日本語の全く新たな面(脳の言語の新機能面)との出会いのようです。
まだ日本語にならぬものをノートに書きなぐることであろうとも、
意味を成さない文字も文章も繰り返し書くことで成長するかのように、
自分自身と語り合い、かつ自分についての理解を深めたいと考えていたようです。

このように、リハビリの三人との交流(会話とゲーム)が刺激となり、
次に始まった日記風ノートでの文章と自問思考の練習が肉付けするような形で、
私の“日本語”は再スタートしたようです。

★(私の気になること)
手術後に最初に意識したのは、まともに使いこなせていない日本語そのものでした。
当初の貧弱だった私の日本語能力も、リハビリでの会話・訓練が始まったこともあり、
かなり急速にレベルアップ(能力復活)しただろうとは思います。
ただ“急速に”というのは私の思い上がりだったようで、
転院してから思い知らされたのは、こんなことも出来ないのかと驚かされる
自分の劣っていた日本語の力でした。

ここで転院した病院のベッドで、読んだ本から一部紹介すると、
フロイド・E・ブルーム他「脳の探検 全2巻」(講談社、ブルーバックス、元版)
(難しい箇所は飛ばし飛ばしで読んだ本書の第8章の「思考と意識」から引用)
・「私たちは意識に現れた物ごとを記述するために言語を使う」
・「言語は人間が経験を組み立てる基本的な手段です。そのため、意識は言語に依存するのです。」
・「私たちが意識として経験するのは脳に起こる出来事のうち、脳の言語システムを介して処理されたものだけです。」
これらの文章は“日本語”でずっと悶々としていた私にとって、衝撃的な内容でした。
ままならぬ“日本語”と私全体を仕切っている大脳と
格闘せざるを得ないなと感じた理由がここにあるようです。

さて一番の問題である“クモ膜下出血”についての本を読み、少し具体的に知ったのは、
転院後のちょうど手術から一ヶ月経った頃でした。
ある時期はまるで無関心というか、自分自身の病気について無頓着とも思える変な時期もありましたが、
段々と気になり始め、退院後は脳卒中や大脳についての解説書を読み、
またクモ膜下出血や後遺症に関連するネットのサイトも調べたり、
2病院でお世話になったリハビリについての本も購入するなど、
関連分野への関心は増殖しているようです。

なかでも、オレに何が起き、どんな手術がなされ、大脳皮質などへの影響はどうだったのか。
自分に起きた事すべてについてを知りたいと考えるようになりました。
“脳動脈瘤の破裂”と“クモ膜下出血”も、やっと少しは理解できるようになったので、
手術の主治医の先生に会うときには、色々質問して、是非教えてもらいたいと思っています。
私の中で実際に何が起きたのか、そして今何が行われているのかを知ることが、
今ある自分と対峙することにつながるんだと思います。

また今の私自身が色んな後遺症の影響下にあるわけで、
軽微とは言え、視野と聴力に一部障害のあることも判明しました。
数値化するこれら眼と耳とに比べると、精神的な障害についての説明は難しくなりますが、
今ある記憶や能力などの大切なことも後遺症の元となることも、私の大脳のなかで起こったのです。
以前の自分との連続性を一部失ったのではとも思えた手術後の“オジサン坊や”だった私、
過去の色んな記憶やほとんどの能力を取り戻したと思わえる今の自分、
かつてあったけれど今は一部失われたかに見える色んな能力、
現在新たな結びつきを強めようとしているかもしれない神経細胞とシナプス…
これからは大脳と言語についての話題周辺をずっと動くことになりそうです。

★(ブログについて)
転院が決まった頃は札幌東徳洲会病院のリハビリの若い人たちに、
そして転院した後は時計台記念病院で会ったリハビリの大勢の若い人たちにも、
退院したらブログで病気とリハビリなどについて書くつもりなので、
その時はよろしく、と言いながらか、または心の中で唱えながら、
この部屋に戻ってきました。

以前のブログであれば、書き終わった文章をもう一度読み返し、
内容に特に問題が無くて、第三者に意味は通じるだろうということなら、
それがブログの記事のゴーサインで、即アップロード(公開)になっていました。
たまに何か投稿しなくっちゃ、ネタは何かなかったかな、
そうだあれで行こう、よし出来たからアップだ、
という軽いノリで書いて投稿していましたから、
書くことでこんなにも意識して悩んでしまうことになるなんて…。
こんなブログならば、まず判りやすい文章かどうかが問題になるでしょう。
ところが実際に書いている私の能力はどうかというと、かなり落ちています。
恐らく昔の、病気前の文章と比べてもらったら、一目瞭然かも知れません。
文章と文章のつながりとか、文章の集まりの構成というか、
論理的な結びつけ方(文法)といったら良いのか、どう表現すべきなのか判りませんが、
以前意識もせずに出来たことが、今は意識しても出来ません。

昨日再読した文書に大事な指摘があったので、それを紹介します。
時計台記念病院のリハビリの臨床心理士・Gさんから退院する直前に渡されたもので、
それまでの私に対する色んな検査・テストなどの結果を踏まえて、
文書「高次脳機能の特徴と対応点」で4点が指摘されています。
そのひとつが「順序立てて考えたり、抽象的に考える事が苦手になっている」とし、
「遂行機能障害」と呼んでいます。
また「要領よく伝えたり、文章を作ったりする事が苦手になっている」という
軽度の「失語症」があげられ、さきの「遂行機能障害」と相まることも危惧されています。
まさに上の二点は、私がずっと悩んでいたブログでの文章作成のことも指摘しているのだと思います。

残念なことだけれど、ブログを前のようには書けなくなったことを後遺症として認め、
文章作りがこのように拙くとも、このレベルをスタートラインとするしかないようです。
そこで「はじめに」に書いた“書き直し”は、今回はもうヤメとしました。
やっとアキラメがついたということでしょうか。

★(終わりに)
次からの話題は毎回もっと絞ったテーマ別になるだろうと思いますが、
そうなると今の私の文章力でも対応できるかも知れません。

今回は第一回目ということで、記憶の少ない初期の時期を取り上げたので、
看護婦さんやお医者さんの登場も少し多くなりましたが、
次回は“リハビリ”関連で行こうと思っています。
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