2016年07月06日

★第二子を生むため母の実家・長野を目指し秋田辺り(日本海)へ船で決死行!?1945年(北方領土・多楽島-4)

1945年9/30に母たち(長女・母の養母)が多楽島を脱出して根室に来た時、
汐見町にあった父の兄宅(父が多楽島に婿入りした頃に根室へ??)を頼ったらしい。
ただ7/14・15の米軍による根室空襲で根室の8割が焼け野原で、
空襲で亡くなった人も多いし、焼け出された人がたくさんいた。
(鳴海町にあった中田先生の祖父の家も横田船頭さんの家も消失)
頼った汐見町の家は空襲の被害は無かったけれど、
当時の住宅事情はかなり悪いし、母たちがいったいどの部屋で暮らしたのかは不明。

《ソ連軍上陸後に北方領土の島を脱出し逃げて来た人たちにとって当時の根室は?》
7月にあった根室空襲の状況を知って置く必要があるので、ネットで確認。
●【7月14日・15日北海道空襲の日】pdf
http://okapi-net.com/setsuwa/_userdata/0714.pdf
「<根室>
根室市への攻撃は道内でも激しく、根室空襲研究会の調査では市街地の70%が焼け野原と化し、210人が死亡した。7月14日午前5時15分に始まった根室空襲は当初、根室湾の船舶が標的だったとされる。根室は北方への物資供給拠点。確実に戦力を奪うための攻撃とみられ、市街地への爆撃はほとんどなかった。しかし、翌15日、状況は一変した。午前5時8分に空襲警報があり、米軍機7機が市街地に飛来。3時間後には40機以上の大編隊が500ボンド爆弾やロケット弾を撃ち込み、市民は激しい機銃掃射にさらされた。」
(★死者数は他と異なるが、当時の空襲状況について一番詳しい。)
(軍事関連施設の無い(?)根室の市街地を狙った7/15空襲は無差別爆撃です)
(公開されている米国の公文書が気になりますけど、何が書かれているのか!?軍事的には7/14の根室沖停泊の2隻以外に何の意味も無い根室空襲だったのでは…!?色んな記事を読んだので、何処に書いてあったのかも定かでないが、別のところを爆撃する予定が変更となり、積んだ爆弾は落として軽くして帰還しようぜとなったとしか私には思えない。そんな物量投入のできるアメリカ……、その頃アメリカにあったのは九州上陸作戦で、北海道と仙台からの支援を絶つ目的という記事もどこかで読んだ記憶も…真相は知らないが唐突と思える二日目の根室空襲、千島列島南下をうながすソ連軍への支援なのか?)

●北海道空襲データベース(根室市)
http://kuusyuu.way-nifty.com/blog/2011/09/post-5989.html
「【根室空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間305、船員45、軍人23
 氏名不明・・・民間  1、船員 0、軍人18」

●北海道空襲-ウィキペディアWikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%A9%BA%E8%A5%B2
「根室空襲(根室市街地 焼失倒壊家屋2,457戸、死者369人)」

●空襲後の根室(焦土の画像)
Nemuro_after_the_1945_air_raid.JPG
(↑左クリックで拡大)
(国書刊行会「写真集明治大正昭和 根室」より(らしい))

連載記事の北方領土・多楽島-1で触れたと思いますが、
戦後生まれの私にとって当たり前だった「鳴海公園」が地図に無いのは驚きでした。
●昭和11年 根室町住宅地図-根室トピックス
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3922/s11nen.jpg
地図上で左クリックすると拡大できます。
この住宅地図の8割が根室空襲で消失し、鳴海町住宅街の跡地に後に「鳴海公園」ができたことが実感できます。


前回取り上げたお膳セットを調べていた頃に、
父母の歴史年表作りとエピソード集めを始めていたので、
私が電話で姉に色々訊くながら、縦軸は年月日、横軸には重要人物を置き、
エクセルの表をエピソードなどで埋める作業をコツコツとやっています。

姉の「ヒデカズは長野で生まれたんだよ、知ってた??」から、今回分の推理と調査は始まった。
兄の誕生は昭和21年5月4日で、今の長野県上田市です。(今年70歳になりました)
(小さな姉は昭和19年1月生まれで、当時を知る情報は姉の母聞きの記憶のみ)
(兄にも確認したが、姉以上の情報は無かった)

《★姉が母から聞いた話★》
祖父から「米ならあるから長野に来い」と連絡があった。
父母私の三人が横田船頭さんの船で根室を発ち、
津軽海峡を横切って秋田?辺りに船が着いた。
大荒れの海に母は死も覚悟して
私によそ行き用のきれいなおべべ(着物)を着せたと。

(姉に確認するが「凍えそうな寒さ」的な発言は無かったから冬説は薄いか?)
(母は内陸育ちで多楽島と根室間の船しか知らなかったから、
太平洋海原の長い航海は初めてで、荒れた海に驚き震えたのでしょう)
「秋田から国鉄列車の乗車予定を(電報で)連絡してあったので、
祖父は今日は着くかと最寄りの駅に何度も迎えに通っていたらしい。」


《●推理1●》
「秋田?辺り」と聞いた時には、何故八戸(太平洋側)とかでないのと感じましたが、
調べると青函連絡船は7月の北海道空襲で壊滅しており、国鉄も寸断か?
(中田先生によると、学徒勤労動員で落石(おちいし)で作業していたが、
空襲を知って木炭自動車で根室に向かったけれど
途中の橋が落ちていて大変だったと)
もし汽車で函館に行けたとしても、それから渡る船を探すのは難しそうだ。
調べると7月10日には仙台空襲があったので意識的に避けて日本海へ…
東京大空襲があったから東京へ着いたとしても長野は遠そうだ…
東北の日本海側を目指したのは横田船頭さんの賢明な判断か!?

《●推理2●》
冬には流氷に閉ざされる根室港
お腹に子がいるのに春になってから秋田?辺りを目指すのは無謀だ。
すると昭和20年秋か遅くとも寒さが厳しくなる前の冬に決行か?
(船は花咲港に係留としたら?)
流氷の無い花咲湾を発ったとすると冬に決行の可能性は残るが時期の特定は中断。


私は船・海などの知識が皆無なので、3/10(木)中田先生に電話して助力を乞う。
中田先生の色丹の実家は何隻も船を持つ漁師だったので船事情などに詳しい。
《●中田先生のお知恵を拝借》
・昔、船頭は経験と実力のある者しか取得できなかった。
・秋田へ向かったとすると20〜30トンクラスの船だったと思う。
・海岸沿いに進めて、積める燃料量に限りがあるから、
途中で燃料の補給をしながら泊って、3日か4日はかかったのではないか。
・船頭さんは流氷の冬には花咲湾(太平洋側)に係留していたと思う。
・その当時に街から花咲港へ向かうとしたら歩きか馬車しかない。

ど素人の私にはイメージできない20トン船??
ネットで調べると次の記事がありました。
「目安として全長で15〜20mくらい、幅が4〜5mくらいのことが多いような感じがします」(Q&Aサイトから
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422970054

中田先生に電話した時に、他に乗客は居なかったのかいと訊かれ、
父、母、姉の三人だけですと応えました。
けど当時の根室は空襲でかなりの家屋が焼失しており、
島から脱出者には頼る家屋の無い人が多かったと…
本州の実家へ行きたいという需要はかなりあったと思うし、
船の燃料は高い(?)だろうし、入手も難しかっただろうと考えると、
他の家族と一緒に乗船する方が自然ではないかと思い、
姉に再確認したが、同乗者の話を母から聞いたことは無いと。
可能性は残るが、もし同乗者が居たのなら、
母ならば連絡先ぐらいは交換しているはず。
でもそんな話題は後にも出ていないようなので推理は断念。


この推理を中断したまま、後に姉に聞いた話だが「産後三週間」という言葉
(独身の私には初の言葉だが、検索したら色々ありました。大事な三週間と)
聡美と晃行(私の姪と甥)の誕生の時には、母が帯広へ来てくれたと…
(この時には当然のように残された私が炊事係をやっていました)

「産後三週間」を知ったので
《●推理3●》
島脱出後に、身籠っていることを自覚した母は早い時期に、
長野の祖父に手紙(電報?)を書いて助けを求めたのではないか!?
10/30に父が島を脱出し、島には簡単に戻れそうにない事が判明。
お腹に子どもがいる、でもこの義兄の家での出産は心細い、
食べ物の不安などの無い、環境の落ち着いた長野で産みたいと。
寒くなる前にと横田船頭さんに話を持ち込み相談したのではないか?
お腹が大きくなってからでは海上で流産の恐れがある。
ということで、11月中か12月初めに決行、で推理は終了です。
「米ならあるから長野に来い」が一番の原動力だったと…
(終戦後の食料事情と言えば、足りない配給と農村への買い出し(物々交換)、
そして闇食料の取り締まりというイメージですから、
戦後生まれの私には想像できない食料不安の状況だったのでしょう)


《根室空襲後の新築事情/「ヤマレン」店舗住宅倉庫が空襲で消失》
亡くなった父が根室でやっと定職に就き(時期は不明だが昭和26年頃か??)、
退職までお世話になった「ヤマレン」の山本連治郎社長に父の事を照会しておりましたが、
先日『創業100周年記念誌 蒼天遥か 株式会社ヤマレン』を送っていただきました。
この記念誌の中の貴重な「回顧録1」(亡き先代社長・山本連一様取りまとめ)によりますと、
「戦災直後でまだ資材の統制は解除されない中での建築は大変であったが、大工に工賃として食料を支給する等苦労して最初の建築物(住宅)を建てる事が出来、創立者の一家がぎりぎりの12月31日に入居する事が出来、新居で昭和21年を迎える事が出来たわけである。」
大正2年(1913年)から根室で商売をされていたヤマレンさんでも、
「大工に工賃として食料を支給する等苦労」と記してますから、
当時の食料事情は想像を超えたものだったようです。
こんな食料状況の根室で、島を脱出後に義兄宅に間借りしていた母たちに少しの貯金があったとしても食料入手にはあまり意味がなく、出産に大きな不安を感じた母は長野行きを決断したのだろうと思います。


★あくまで想像ですが、横田船頭さんは各地に居るであろう船頭さん仲間を頼って、
電報などを利用して燃料や食事の事前確保などを図ってから実行に移したと…
燃料が貴重な時代に、行き帰り往復分の燃料を各地に事前に確保するのは大変なことだったろうと思います。
母の立場だと、死も覚悟の決死行に感じたかもしれませんが、
船頭さんにとっては、緻密な用意周到の上での実践だったのでしょう。

●決死行?の海路想像地図
根室-秋田1.jpg
(↑左クリックで2段拡大)

横田の船頭さんについては、父母も「船頭さん」と呼んでいたので、
たまに訪れて父と酒を酌み交わす時に、子どもの私も船頭さんと呼んでいましたし、
船頭さんの家には結構遊びに行って、おばさんには可愛がってもらった記憶があります。
その当時は、多楽島を脱出した時の船頭さんという意識しかありませんでしたが、
第二子(兄貴)出産の恩人であり、今の私が居るのも、
母たちの乗った船を秋田?辺りに無事に着けてくれたからです。
もし母たちが無事に着いていなければ、辻岡家は消滅しておりました。
私の子ども時代はもちろん先日まで、こんな重要人物だとは知らなかった。
この推理・調査でフルネームを初めて確認いたしました。
既に亡くなっておりますか横田清吉さんです。明治38年生まれです。
姉曰く、恰幅の良いオジサンが来ると狭い茶の間に居場所が無くなったと。


中田先生の祖父が孫たちの教育のために根室で暮らし始めた時(昭和6年)の地主が、
私の母の養祖母だったことは連載シリーズ第一回目に書きましたけど、
中田先生によると、空襲前の3〜4年間、本通り向かいに住んでいたのが横田さんで、
小柄なおばさんと娘(女学生きよこ)さんを記憶しており、空襲で焼け出されたと。
戦後70年も経ってから私が調べ、こんな縁が初めて判ったのですから不思議です。
昔の根室は大きな町じゃないのですから、色んな縁がありえますけど、
「たまたま」だけでは済まされない何かがあるような気がしてなりません。


これもまた昔のこと過ぎて、推測というか私の勝手な想像でしかないのですが、
《私の推測》郵便物運搬船と横田船頭さん
(色丹島・得能幸雄さんの語る郵便事情/小島敏郎『郵政人の北方領土』から)
郵便物は定期船が月に3回寄港予定
が実際は月に1回来ればいい方
だから荷物運搬船と別途契約して運搬

横田船頭さんがこの荷物運搬船だった可能性が高いと思う。
多楽島以外を含めても、郵便局の郵便物だけの運搬だと高が知れているので、
辻岡商店などの扱う雑貨の搬入や乗客移動なども手広くやっていたのでは!?
中田先生によると、国後の水産試験場関連の船頭をやっていたのでは?
いくつかの島の郵便物の搬出入や乗合船に雑貨店への商品搬入、
そうなると泊りになることもあり、多楽郵便局に泊って晩酌の歓待?
残念ながら親父が酒を訓練して呑むようになったのは、
島を脱出してやっと定職(ヤマレン)が見つかった昭和26年頃からだが…
そんな多楽郵便局での付き合いがあったので、母たち郵便局の島脱出に関わり、
更には秋田辺りへ向けての船の決死行の立案・実行と…
そして戦後も辻岡家は横田家と懇意に…。

更に後のことだが、昭和34年(1959)には
母方親戚の清水浩さん、大阪から根室の横田家に婿入り。
《姉談》
北海道に父さんの塚田系は沢山居るけど、母の宮下系は誰も居なかったから、
浩さんが根室に来てくれたのを母はとても頼もしく思ったのではないか。

(浩さんのお兄さんが母の依頼があって一時期、多楽郵便局を手伝っていたと)
《姉談》1944年6月?(昭和19年)、父(38歳?)兵役に
生まれて6か月の私を抱いた軍服姿の父の写真がある。
もう帰れないかもと撮った一枚らしい
(丙種合格の父/戦地には行っていない)。
(この時に浩さんのお兄さんに手伝ってもらったのか?
いつ父が兵役から戻ったのかは不明)


長野へ向けての決死行の後日談
《姉談/母聞き》
長野に着いてからの話だが、
一時疎開のつもりで多楽島を脱出したので、
持っているのは夏服と秋服に、よそ行き着物のみ、
長野で娘に着せるものが無かったことから、
冬子(母の義姉/宮下家の長男の嫁)さんのお腰をもらい、
それを染めて、長女の普段着を作った。
母は結構器用だから…


終戦後、ソ連軍が北方領土の島々に上陸したことから、
島を脱出した方はたくさんいたようです。
荒波に飲み込まれて根室に辿り着けなかった方も…
ようやく根室にたどりついたものの逃げて来た人が多く、
住む家は無く別海の浜で暮らすしかなかった方がたくさん…
根室空襲で焼け野原と化していた根室の港では岸壁にたくさんの人が…

状況は様々だったのでしょうが、母たちのように実家(生家)を目指した人も…

千島連盟(千島歯舞諸島居住者連盟)の平成27年3月31日現在の正会員数は3,880名(元島民2,070名、後継者1,810名)で、道内会員は2,735名、道外会員は1,145名となっており、道外会員のうち関東支部459名、富山支部385名と、何故か富山県が突出しております。
http://www.chishima.or.jp/pdf/H27-kaiin.pdf
これは北方領土の島には富山出身者がとても多かったということと
島脱出後、出身地の富山に移住した方が多かったからだと思います。
《参考》
●昆布消費量 [ 2010年第一位 富山県 ]|新・都道府県別統計とランキングで見る県民性 [とどラン
http://todo-ran.com/t/kiji/14642
"富山市の消費量が多い理由としては、昆布が日本各地に広がっていった経過が関係あります。富山は江戸時代に海運業で栄え、昆布を蝦夷(北海道)から大阪に運んでいた北前船の中継地点として、大量の昆布が北海道から富山に運び込まれました。
そのため富山では昆布を使った郷土料理が多く作られるようになりその名残が現在まで残って、このように消費が多くなっているのだと思われます。コンビニで「とろろ昆布」のおにぎりが売られているなど富山は昆布の消費量日本一を誇っています。"


戦後生まれで船の知識皆無の私が推理した島脱出後の当家エピソードでしたが、
小さなエピソード(姉の母聞き談)を軸に、当時の社会情勢で肉付けしながら、
こうだったのではないかと推論したものです。
推理ドラマで未解決事件を紐解く探偵が、色んな人物と出来事の写真・メモを壁に貼って推理しているような雰囲気でした。
貼る壁の代わりに、私の場合に活躍したのが、表ソフトエクセルです。
終戦前後の古いことだと、父母の兄弟姉妹も亡くなっておりますから、
その子どもレベルの父母からの聞き話しか証言がありません。
私はその姉からの又聞きにやっと間に合った感じです。
父母に関する情報は限られているので、色んな可能性の枝を想定・想像しながら、
推論で可能性を絞って推断することしか私にはできません。
その推理の経過も書こうとしているので、こんな風に長くなってしまいました。
もっと色んな書物や証言を調べたら、肉付けに役立つ新情報もあるのでしょうが、
この辺が限界だということに致します。


残す連載予定は後2回です。
次回は島を脱出できなかった人たちを描いたアニメ「ジョバンニの島」と
そのモデルとなった人・得能宏さんの証言をメインに書く予定です。
あくまでも戦後生まれの私の目線でしか書けませんが、
父の多楽島脱出エピソードを導入部とします。
私が父から直接聴いて憶えているエピソードはほとんど無いけど……

《関係者へのお詫び》
これ以上の校正などはもう止めようとこの原稿が完成したのは6/30のことだ。
いつもなら、ブログにアップすると同時に、原稿の印刷したものを関係者に送付、
というつもりでいたら、プリンターのインク切れがあり、
6/30(木)に早速アマゾンで注文し、7/1に発送連絡があったので、
インクカートリッジは7/4(月)に届くだろうから、
7/5(火)には発送と記事アップができるだろうと待っていたのに7/5にも届かない。
昨夜まだ届かない旨を連絡したら本日7/6に返信連絡があり、
結局、日本郵便への調査依頼をお願いしました。
ということで、ブログへのアップのみを先行いたします。
よって原稿印刷物の発送は少し遅れます。
posted by yumenoya at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/439769284
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック