2016年04月21日

★ソ連軍上陸後に島を脱出した宿屋の漆塗り朱色お膳セット木箱 その2(北方領土・多楽島-3)

(当初予定していたより文章量が増えたので二分割して掲載)

《親父談/ソ連軍上陸後》
「日本軍の幹部から、ソ連軍は、日本軍の武装解除を終わったら、
島には長くいないという風に聞かされていた。
それでも、ソ連軍が来たら、女子や子供は島にいない方が良いと言われていたので、
根室の方へ、一時疎開のつもりで、島を脱出させた。
ところがソ連軍は、武装解除を終わっても、そのまま駐留してしまったので、
島を出た人々は、それっきり島に戻ることはできなかった。」
(小島敏郎「郵政人の北方領土」平成7年より)

姉の母聞きによると、母も"一時疎開のつもりで"島を脱出したようで、
米・味噌などと当面の衣類しか持ち出していなかったようです。
●姉の母聞き談の島脱出には、養祖母は登場しないので、
辻岡商店の脱出は母たち郵便局グループとは別便と思われる。
(注・母たちは次回の記事で活躍する横田船頭さんの船で島を脱出)

《辻岡商店》
姉の母聞きによると、辻岡商店は宿屋と何かの小売りもしていたらしい。
が本当はどうなのかはよく判らないのと
結構な大きさの木箱が4個ですから、これを持って島を脱出できたのか?
それともその時には、宿屋については廃業していたので、
平内町の家に移動済みだったという可能性も残る。
養祖母は昭和26年に81歳で亡くなっておりますが、
逆算すると終戦時に75歳ですから、引退していてもおかしくない年齢。
昆布を干す前浜に結構な土地(利用権利?)を持っていたようなので、なおさら…
または動かせる財産で一番高いものがお膳セットの木箱…
(土足で上がり、金目の物を探したソ連兵たちを目の当たりにしているだろう)
居ない間にお膳セットがソ連兵に壊されたら困る…
宿屋用に新調したもので大正時代には結構高価な漆器だった?…

《ソ連軍が上陸した時に辻岡商店は営業していたのか?》
辻岡商店の宿道具として今に伝わる「漆塗り朱色お膳セット木箱」に関連し、
ソ連軍が多楽島に上陸した当時、
「辻岡商店」はどうだったのかを知りたいのですがと、
3/6(日曜)中田先生に電話して、当時をご存知そうな方を紹介してもらった。
東狐貢(とうこみつぐ)さんがよろしいのではと電話番号を教えてもらい、
早速電話をしました。
残念ながら、ツジオカという名前はかすかに記憶はあるけど……、
その頃のことをずっと調べているカワタヒロトシさんなら判るかも知れないと、
カワタさんの電話番号を教えていただきました。

多楽島関係の証言動画を視た時のメモを確認しましたら、
「河田弘登志、昭和9年生まれ、終戦時10歳」があったので、
再度視聴してから、多楽島の住居地図で同姓の家を探して確認
●河田弘登志氏 歯舞群島多楽島(元島民の体験談動画)| 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/nettv/experience/ex_tp_kawada/
(Firefoxは再生不可、IE及びChromeは再生可)
●千島連盟のサイトにある居住地図では古別(フルベツ)の「辻岡マス(商店)」
http://www.chishima.or.jp/pdf/map/habomai/09.pdf
(辻岡商店と河田宗四郎宅との距離感を確認)

《終戦時に10歳だった河田弘登志さんに教えていただきした》
(地図の河田宗四郎宅で確認が取れました)
・郵便局は辻岡さんがやっていた。
・辻岡商店は宿泊所と田舎にあるような何でも扱っている雑貨屋を兼ねていた。
・昆布買い付けの商人だけでなく、色んな人が宿を利用していた。
・自力脱出組には結構財産を持ち出した人もいました。
・お菓子などを買いに辻岡商店を利用していたので、ソ連軍が上陸した時にも店は営業していた。

「自力脱出組には結構財産を持ち出した人もいました」ということと、
辻岡商店が懇意な船頭さんの船(宿泊客&雑貨仕入れ)を頼んだとすると、
お膳セット木箱((横/縦/奥行)36cm×100cm×36cm)の4個は積めそうなので、
ソ連軍上陸後に脱出しただろうと推理を確定しました。
(次回に詳しく触れますが、20〜30tクラスの船と想定しての推理)


「宿屋と何かの小売りもしていたらしい」としか判らなかった辻岡商店だったが、
実際に店を利用していた河田弘登志さんの証言で喜んでいました。

その後日、何度も電話して助けてもらっている中田勇先生ですが、
河田弘登志さん(多楽会の副会長兼事務局長/千島歯舞諸島居住者連盟(略称:千島連盟)副理事長)から下記の記念誌を入手して、小生に送っていただきました。
そこに下記の記事が収録されていました。
《辻岡商店についての記事》
●島の商店(「多楽会創立40周年記念誌 たらく」(平成25年1月31日)より)
・商店は日用雑貨が主でちり紙・たわし・ほうき・石けん・駄菓子・酒類といったものでした。
・(6軒の商店の)中でも古別の辻岡商店は1番大きく、他の商店で売っていない物も「辻岡商店まで足を運べば手に入る」と言ったものでした。
(「たらく」収録の「歯舞群島旧島民の生活」からの抜粋
北方領土研究シリーズ その2 1986 北海道根室高校地理研究部)
北海道根室高校地理研究部の皆さん、どうもありがとうございました。
仏壇の間の写真でしか知らない養祖母ですが、商人としては結構頑張っていたようです。


前回紹介した中田先生の「アザラシ皮のカバン」ほどでないにしても、
伝わる現物があるから写真があっての新聞記事が可能で、インパクトがあるぞと。
姉に訊いたら、お膳セットにまつわるエピソードもあるし、
多楽島に生まれた姉がそれらを語れば、絵になるなというイメージでした。

お膳セットについての調査がほぼ固まった時に姉に相談しました。
北海道新聞に北方領土にまつわる記事として売り込みをしたいが、と。
70歳を越えた姉としては、今さら目立つのは嫌で、このままひっそりと…。

宿で使っていたお膳セット木箱を調べ始めた当初のインパクトある目論見が消えましたので、
昔、貸本"夢の屋"についての記事を書いていただいた記者に突如電話して相談しました。
記事としてモノになるかどうか判らないことを取材記者に説明する手間を考えたら、
自分の思っているようにまとめる手間の方が楽だと。
その結果がこうやって自分でブログの記事を書くことでした。


島でそして根室でと、色んな出来事に立ちあってきたお膳セット
いつか、実生活で使わないものは邪魔という時代が来るだろう?
お膳セットについて調査を始めた頃に、ネットでその価値を調べた。
すると旧家や土蔵を壊す時に破棄処分されているのが普通のようです。
絵装飾は無いから高評価は無理でも、破棄処分はしないでせめて古道具屋へ。
ひょっとしたら古道具屋も断るかな…
大正に製造をと感じさせない良い状態と造り?と記憶しているけど、
装飾が無いから、映画やテレビドラマの小道具にはピタリかな?


飛び込んで来た4/13(水)のニュース
●ロシア外相、北方領土「4島すべてが交渉対象になる」-2016年4月13日(水) 7時35分 TBS News(動画付き)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2748512.html
地元の北海道新聞はどう報道したか
●「4島全て交渉対象」 ロシア外相、領土問題で明言-04/12 23:10、04/13 01:37 更新 どうしんウェブ
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/international/international/1-0258602.html
北方領土問題に関心の薄い私ですが、こういうニュースには割と敏感な方でした。
4島を論議の俎上に載せましょうとロシア側が言ったのはかなり画期的なニュース!?
ロシアも望んでいるのですから、具体的な進展を期待しています。

と期待はしても、外交という政治レベルの話は生活の話とはかけ離れています。
明治・大正時代に後に"北方領土"と呼ばれる島に入植した日本人が居て、
そこに生活基盤を築き、子を孫をと育んできたが、突然のソ連軍上陸。
逆に考えると、ソ連政府の命令で島へ家族を呼べと言われた将校等が居た。
その1945年から、もう70年が経っています。
ソ連入植者たちの島生まれの子ども世代に孫が居ても当然。
お互いに翻弄されたロシア人と日本人とが共存する方法の模索……


戦後生まれの私は生活レベルの島にまつわるエピソードを紐解くこととし、
次回は多楽島脱出後に第二子出産のために
「長野へ向かっての決死行?(船で秋田辺りを目指して根室を出港)」を予定
posted by yumenoya at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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