2016年04月05日

★亡き母の若き日を求めての推理劇は突如開幕した(北方領土・多楽島-1)

劇的な遭遇は、気まぐれなネット検索から始まった。
2月20日(土)夜、中学時代の3年間、クラス担任だった中田先生(数学)について、教え子の誰かがブログなどで書いているかも知れないと思って、試しに検索してみた。
すると何と、中田先生は色丹島出身者で北方領土問題の語り部として活動しており、その証言動画も活動記録なども簡単にいくつも見つかりしました。動画の顔と声は記憶にある中田先生で間違いありません。

★根室って、北方領土って何処にあるの??&子ども時代の意識(「北方領土・多楽島」の補足記事1)-4/5 気まぐれ何でもメモ帳(夢の屋/ゆめのや)
http://yumenoya.seesaa.net/article/436241752.html

ビックリしたのは、中田先生が北方領土の出身者だったことです。このネット検索をするまでは、それを全く知らなかったのですから、これは驚きでした。

中学時代、中田先生は正式な家庭訪問ではなくて、個人的に我が家を訪れて、何度も親父と酒を呑み交わしておりました。けど中学生の私には、大人の会話には全く関心がないので、何を語っていたのかは知らないし、親父と歳は離れているのにウマが合うのだろうかと少し不思議には感じていました。もしそこで色丹島が話題になっていれば、中田先生が帰った後に両親は私に教えてくれたはず。なのに私がそれを忘れてしまったのだろうか??という疑問が生じました。

というのは、母は若い時に養祖母に連れられて長野から多楽島へ養女に(親戚も知人もいない根室に/やっと根室に着いたと思ったら船に乗せられた/母は島だとは聞いていなかったようだ)。そしてそこへ父が婿入りし多楽郵便局を、昭和19年には姉が誕生。しかし終戦後にソ連軍が上陸したので、まずは母たちが、最後に父が島を脱出し逃げて来たと。そして父に定職が見つかるまでは大変だったと。これが多楽島に関する私の知識でした。ですから、父母が多楽島で過ごしたのは短いとは云え、もし酒を呑みながら北方領土が話題になっていたら、そのことを私が知らないはずは無いだろうと。

また北方領土問題に関心の薄い私でしたけど、私は母や父のように皆が島を脱出したのだろうとずっと思っていました。
ところが、動画証言によりますと、中田先生の祖父・父母などの家族のように、ソ連軍上陸後2年間その監視の下に島で暮らし、そこから樺太(サハリン)の真岡に移動して収容され、そしてやっと引揚船で函館に着いたと。そんな方がたくさん居たというのは更に驚きでした。
●中田勇さん(北方四島の元島民)|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110556_00000
●中田 勇氏 色丹島色丹村 | 体験談動画 | 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/nettv/experience/ex_douto_nkt/
(私は普段Firefoxを使っているが再生不可も、IEでしたら再生可)

私の無知とは云え、どうして、小学校には郷土を学ぶ時間があったし、歴史の授業だってあったのに、先生方は意識的にそれを避けていたのだろうか!?という疑念。生まれる前の事件とは云え、それを知らないのは恥だし、それに無知なのは情けない事です。とは云え、郷土の歴史の教え方はかなり難しいだろうなとは思うものの、小中高時代に何も教えられず、64歳になってから初めて知って驚いている私がここにおります。

2月21日(日)の深夜は、色丹島のことを描いたアニメ「ジョバンニの島」を初めて観ていて、ロシアの少女が登場したところで鑑賞中止し、中田先生に電話するしかないと決心して就寝。このままでは自分の中でしっくりしないから、中田先生に問いを投げかけるしかない…。


《★中田先生に電話/中学卒業以来49年振り》
ネットで調べた電話番号が同姓同名の可能性もあったが、動画の声と同じだったので、光洋中学校で三年間クラス担任でお世話になったツジオカですと名乗りましたら、ヒデアキ君かい?とすぐに判っていただきました。

決して懐かしくって電話したのではなく、教えていただきたいことがあって突然電話しておりますと。
ネットで検索しましたら、先生の語り部活動と証言動画があって、それで初めて先生が色丹出身と判りましたが、父と母の前で北方領土が話題になったことはあったのでしょうか?と。
「酒を呑みながらお互いに、北方領土とか、色丹、多楽の話になったことは一度も無い」

私は今回証言動画を視たり、ネット記事を読むまで、樺太の真岡を経由してやっと函館に引き揚げてきた方がたくさん居たことを今までずっと知らなかったのですが、生徒の前で"北方領土"について話したことはあったのでしょうか?と。
「語ることがタフー視された時代があった」
「ロシアを刺激しないようにしていた時期があった」

(ここは私の解釈ですが、当時、北方領土問題についての政府の方針はまだ固まっていない。ソ連政府に遠慮した政府・外務省を観ながら、文部省も教育現場で何をどのように教えるかの方針を出せずにいたと。いびつな教育を受けて巣立ったのが私だ。納得はしていないが…このシリーズ記事の最終回で総括する時に少しまとめて書くことにしよう)

これで一応疑問点は氷解しましたし、疑義点の時代背景が判りましたので、私の記憶に強く残っている中田先生の面白い話を二つ披露しました。
「米と異なるがくっ付くと糞(くそ)になる」
「楠正成は籠城した時に、敵に投げるものが無くなり、煮えたぎった糞尿を上から敵兵にかけた」
先生はそんな事あったかなと笑っておられました。
(と数学の授業で脱線するのが楽しみだった先生です)


《★より驚愕する事が判明して、私の好奇心に火が点き、推理ドラマの第一幕は始まった!!》
先生「実はお母さんの若い時に見かけている

「何!?!??!?」と一気に私の生まれるずっと前の出来事にタイムスリップです。

先生「色丹島の小学校へ行くとしたら、通うには遠過ぎて小学校そばに下宿するしかなかった。それで祖父は孫たちの教育のために引退して、根室の鳴海町に住居を構え、そこから学校へ通わせることとした。私は昭和10年から花咲尋常小学校に通った。いつの事かは憶えていないが、祖父に連れられて、平内町の辻岡家へ地代金の支払いに行った。地主のおばさん以外に、女学生っぽい、若い女性が居た。」

(血のつながらない)祖母が亡くなっ時に確かに鳴海町に小さな細長い土地を遺している。でも多楽島に居るはずの祖母と母がどうして根室に居たの!?「女学生っぽい…」ということは結婚前の母かも!?そもそも母は何年に多楽島へ養女に来たの!?
と頭の中はパニック状態です。

まさか先生への電話でこんな驚愕な事が出てくるとは予想だにしていないし、とっさのことだったので何もメモを取っておりませんでした。
実はどういうふうに最後の挨拶をして受話器を置いたのかも記憶にありません。

中田先生の新証言「若い時の母」の裏を取るには、調べることが沢山あります。(私は朝日新聞の記者のように鵜呑みには出来ないので(記憶間違いかも…と一応疑ってかかるタイプです)、外堀を埋める証拠固めをして(裏を取って)、それからやっと自分で納得することができます)

1 長野から母が来たのはいつで、父の婿入り婚はいつ?
2 母が養女にきた時の家族構成と仏間にあった三枚の写真は誰?(血はつながっていない事を知っているものだから、昔から無関心で祖母以外は誰なのか判らない)
3 戦後の鳴海町についての土地勘は記憶にあるので、中田先生の祖父が住んでいたのは、間違いなく祖母の土地なのか?

この調査に並行して、多楽出身者の動画証言は視たいし、アニメ「ジョバンニの島」とそのモデルとなった色丹出身・得能宏さんの動画証言も視たいなどが同時進行しております。

《★住所と住宅の確認》
まず裏取り調査は3の住所から始めました。1と2は私の生まれる前のことですが、3の住所なら私の記憶にある現在の土地につながっていますので、調べるにしても場所をイメージしながら推理が可能です。

その取っ掛かりにあったのは、中田先生の動画証言に出て来た、色丹→根室→根室空襲→色丹(終戦→ソ連軍上陸)→樺太(真岡)→函館と数奇な旅をした祖父の「アザラシ皮のカバン」の中にあった名刺のシーンです。その名刺を拡大したら、住所が判明するかも?
●中田勇さん(北方四島の元島民)|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110556_00000
・名刺で「根室町鳴海町○丁目△番地」と確認
これは現在のGoogle地図と私の記憶にある養祖母の土地と一致しました。

ここで戦前の根室町の住居の地図はないものかとネットを探しましたら、何と見つかりました。
●根室トピックス 根室懐かしふぁおとぐらふ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3922/111.natsukashi.mokuji.html
パート122 昭和11年 根室町住宅地図
パート121 昭和5年 根室町住宅地図

ここにあったのは手書き地図の画像でしたけど、
地図で探す時の一番目安となる「鳴海公園」がありません。
そうか根室空襲で焼け野原となり、戦後その復興の時に整備されたのが「鳴海公園」だったのかと納得。
(こんな事ぐらい小学校の郷土を学ぶ時間に教えてよ!!!)
あるはずの「鳴海公園」が無いし、手書き文字がかすれており、
昭和11年地図で鳴海町○丁目の家を確認できないものだから、
2/27(土曜)中田先生に電話して、電話で道案内してもらいました。

小学校前の通りの角にタバコ屋があります。「そうそう」といった感じで、確認しながら。私が想定していた不鮮明な中田宅は仲通り、ところが中田先生は本通りに面していると。…???…ありました。かすれており、葭治郎が葭「太」郎と誤記していましたが、ちゃんとありました。横の仲通りを本通りと勘違いしておりました。これで、中田先生の祖父の家は戦前の地図で確認できましたので、祖母が地主の土地で暮らしていた事の調査は終了しました。

この電話の最後に、平内町に地主の家があるから確認してご覧、大正にもあったことは手元の地図で確認したと。
その電話後に平内町を確認しましたら、昭和5年にも昭和11年にも「辻岡(マス)」ありました。

この時には、色んな動画証言を既に視ておりましたので、オホーツク海側は流氷で閉ざされることから、越冬用の食料をまとめて揃えて島で冬を越した人がおり、また根室の別宅で越冬する人も居たことを承知しておりましたので、平内町に家があっても何ら不思議で無い。養祖母には根室にも別宅があり、多楽島へ来た養女の母が養祖母と一緒に根室に居ても何ら不思議でない事だし、地代金の集金もあったかも…。

《★それは本当に私の母なのか!?!?》
そして残る疑念は、中田先生の「女学生っぽい、若い女性」は本当に、私の母なのだろうか?です。仏壇の間にあった若い女性の可能性もある??と気になっていたが…

2/28(土曜)、鳴海町の裏が取れたので兄貴に電話し、中田先生との電話で母にまつわる証言があって、その確認のためには、仏壇の間に掲げてあった三人の名前と亡くなったのは何年かが必要だと。ひょっとしたら、写真の裏には享年なんかの情報が書いているかもと。久美ちゃん(兄貴の嫁さんだけど、私の誕生よりは少し後なので、ずっと久美ちゃんと呼んでおります)から、ホコリまみれになったけど、裏には何も書いていないと電話連絡。そして追伸電話、お母さんの三人メモが出てきたと。

・「きみ」昭和10年8/27、16歳死亡 (母が養女に入る前に亡くなっていたマスの唯一の孫である長女/結核/母の改名の由来)
・「源太郎」、昭和18年1/15、54歳死亡 (養父/結核/養父死亡の直後に父は婿入り婚)
・「マス」昭和26年11/9、81歳死亡 (養祖母/母を長野から連れて来た人)
(「みさを」養母、戦後に亡くなった妹の子どもたちを育てるため根室から富山へ)

(母は亡くなる前に、遺産についての遺言をちゃんと書いており、葬式で戸惑わないように、我が家の家紋の印とその名前まで記して残していました。そんなしっかり者のオフクロでしたから、写真の三人についてメモがあった事には、さすがオフクロだと、64歳の私も感服しました。)

中田先生の花咲尋常小学校入学は昭和10年(祖父宅)
辻岡きみが結核で亡くなったのは昭和10年8/27で16歳
母が長野から養女に来たのは昭和15年夏で24歳の時
父が婿入りで結婚したのは昭和18年で母26歳の時
(これらを確認するため戸籍を取寄せて確認したのは3/5)

戦前の結核については全く無知だか、他人の前に出てくるのは変だと考えると「きみ」説は消える。
もし「きみ」が地主宅に居たとしたも、まさに女学生年齢の「きみ」を見て、
中田先生の「女学生っぽい、若い女性」という表現になるだろうか?
大人なんだけど、女学生っぽい若さの(キレイな)女性、をそう表現したと…。

戸籍が届く前、こんな推理をしていた時、姉に電話相談したところ、
小学1年生が一度だけ見た(会った)人を憶えているはずがない。
小学校上級生や中学生ならともかくも…。
ということで、「女学生っぽい、若い女性」は母だでほぼ確定。

次は、結婚前の母かどうか!?
母がいつから郵便局の職員だったかはその後の調査でも不明だが、
昭和18年2月に養父が亡くなり、即父と結婚してからは、
郵便局の仕事があるし、その年末には姉が生まれているので、
祖母と一緒に根室へ出て来たとは考えづらい。
また結婚すると髪型や服装も少し変わったのでは、と思うし、
さらに「女学生っぽい、若い女性」という印象から、未婚の女性っぽい。
ということで、私の望み通り「結婚前の母」で、
中田先生が母を見かけたのは昭和15〜17年の間で、
中田少年は今の小学6年生〜中学2年生だったと推理結果は確定しました。

この調査推理に併行して、次回に取り上げ予定の「多楽島を脱出した宿屋の漆塗りお膳セット4木箱(二十人前)」などの調査・推理を進めておりましたので、中田先生には度々電話をかけていました。途中からは、奥様が出ると「毎度お騒がせのツジオカです」の挨拶が定番となっておりました。

「結婚前の母」で間違いないと推理の結論が出た後に、
別の件で電話をしました時、先生に確認しましたら、
担当クラスの名簿に「辻岡」という名を見たときに、
あの女性の息子さんかな!?と思ったそうです。
最初の家庭訪問で「母」を見た時に「この人だ」と…
父と呑みながら「お母さんのしてくれるお酌は格別」だったそうです。


母が子どもの頃には、"ガイジン(外人)"と結構いじめられたそうです。
母の若い時の写真のことは何も記憶にないけれど、
息子が言うのも何ですけど、色白で結構キレイだったろうと思います。
その意味では、中田少年に見る目が合った、審美眼を持っていたと。
もし、このエピソードが根室時代に母の前で披露されていたら、
「あの時一緒に来た少年が…、なんと今は息子の担任に!!」と母はとても喜んだでしょう。

ところが運命の采配は、1940〜2年の出来事を2016年まで75年間も秘匿に…
母が亡くなったのは1996年2/14(平成8年)
私が中田先生に電話したのは2016年2/22(卒業以来だと49年振りの会話)
奇しくも同じ2月で母の死からちょうど20年
中田先生との不思議な縁(えにし)
それは1931年(昭和6年)に中田先生の祖父が養祖母の土地を借りたことで始まっていた。
運命の女神の傍には時計役目も兼ねた脚本家が付いているのか!?
まさに「事実は小説より奇なり」です。

昭和15年にたまたま多楽島に養女としてやって来ることになった母、ようやく根室に到着したと思ったら船に乗せられて驚いた母(養女先が島とは聞かされていなかった/本籍地は根室町)。そして中田少年の前に現れた、結婚する前の若き母、それが母にまつわる北海道最古の記憶証言です。

★中田先生の少年時代と突如リンクして1940年頃にタイムスリップ!!(不思議な縁のリンク年表)
nakata-link.JPG
1●2016年2/22(49年振り) 中田先生に電話(現代)

2●1964年4月(昭和39年) 私の中学校入学(52年前)

3●1940年7月(昭和15年) 長野から母は多楽島へ養女に(24歳)
中学時代のことで疑問があって電話したつもりが、
さらに20年以上も遠い過去へ突如吹っ飛ばされていました!?!?!?
の図です。


《★北方領土・多楽島-1の最後に》
宮城大学の学生13名に引率2名を加えた15名での現地視察実施があった時の報告書にあった中田勇さん講話の言葉を紹介します。
●平成25年度「北方領土青少年現地視察事業」を実施しました
http://hoppoumiyagi.shakunage.net/2013gentishisatsu.htm
http://hoppoumiyagi.shakunage.net/2013jigyouhoukoku03.pdf
「・私はもう68年間我慢をしてきました。68年間ずっとマラソンを走ってきました。ゴールに着けるかと思いましたが,どうもたどり着けそうにありません。
・ここからは,マラソンから駅伝に切り換え,たすきを渡さなければならなくなりました。誰がたすきを受け取るのか,それは皆さんです。」

私は戦後生まれだし、父母が島生まれでも島育ちでも無く、姉には幼過ぎて島の記憶はゼロなので、私には北方領土問題にあまり強い関心は持てません。
が不思議な縁(えにし)ですから、中田先生の「誰がたすきを受け取るのか」の「たすき」に手をかけたつもりで、私の関心がある亡き父母にまつわるエピソードなどを記事にすることで、北方領土問題とソ連軍島上陸後に触れていきたいと思います。
posted by yumenoya at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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