2016年04月27日

◎一ノ関圭「鼻紙写楽」が手塚治虫文化賞マンガ大賞に決定、目出度い話です/秋に続編の掲載/《追記6/1》贈呈式での挨拶/《追記6/3》「作者に聞く」&「受賞コメント」など

最近、《北方領土・多楽島》という記事を連載しているのだが、
その関心度を調べるため、いつもより多くアクセス解析をチェックしている。
しかしというか当然というか、残念ながら、
「北方領土」などをキーワードに検索する人は極めて少ないようだ。

「北方領土」では無いが、本日のアクセス数に異変が…
一ノ関圭「鼻紙写楽」を取り上げたページへの来訪者が急激に伸びている!?
何故なの……どうしたの……

その疑問を抱えたまま…
午後4時頃に秋田の美和さんから電話
東京の友達から連絡があって知ったのだが、
一ノ関圭さんの「鼻紙写楽」が手塚治虫文化賞の大賞を受賞と

そうかこの所為だったのか、ブログ記事へのアクセスが急伸したのは……

おめでとうございます。
自分の好きなマンガ家・作品が受賞というのは、嬉しいものです。
視ている人はちゃんと視ていて、評価されたということですから。

●【手塚治虫文化賞】マンガ大賞受賞作『鼻紙写楽』、そして伝説の作家「一ノ関圭」とは? 続編の掲載も決定! - コミスン(comic soon)
http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/news/hanagami-sharaku-tezuka-osam-culture-prize/
「このたび手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した『鼻紙写楽』、実はすでに続編の執筆は進んでいて、ビッグコミック増刊号にて秋ごろ掲載される予定となっている。"伝説の作家"が描き出す驚異の筆致、続編掲載前にぜひ単行本でご覧あれ!!!!(ビッグコミック編集部)」
この受賞で、作家・一ノ関圭さんのモチベーションも上がり、
その結果、続編を待っている読者はちゃんとそれを読めるということで、
受賞はありがたいことです。
これで1975年からずっと気になっていた一ノ関圭さんのお顔が見れるかな…

前述の美和さんは、一ノ関圭(夢屋日の市)「らんぷの下」というデビュー時の衝撃を語れる唯一の友人です。
1975年の衝撃を少しは伝えているのが、2001年の下記の記事です。
●「らんぷの下」一ノ関圭 道新マンガコラム(夢の屋)
http://www.d3.dion.ne.jp/~yumeya/doushin-17.html
一ノ関圭作品が初めての方には、
是非とも小学館文庫「らんぷの下」「茶箱広重」の2冊は読んで欲しいですね。
こんな重厚な作品を描くマンガ家が居たのかと衝撃を感じることでしょう。


一ノ関圭「鼻紙写楽」に関連したこのブログ記事を一覧リンクにすると
●衝撃の新刊 一ノ関圭「鼻紙写楽」小学館/「牡丹芍薬(初鰹)」掲載の頃|追記6/2&6/4(絶版か?&掲示板追加)-2015年06月01日
http://yumenoya.seesaa.net/article/419968301.html
●重厚な傑作・一ノ関圭「鼻紙写楽」を紐解く(ネタバレ注意)その一-2015年06月17日
http://yumenoya.seesaa.net/article/420805888.html
●一ノ関圭「鼻紙写楽」の魅力である伏線の例(ネタバレ注意!!)、装幀画像と続巻期待&入手可能な一ノ関圭マンガ-2015年06月20日
http://yumenoya.seesaa.net/article/421012297.html
●一ノ関圭「鼻紙写楽」を読むのに役立つ豆知識(「夢の江戸歌舞伎」の"絵の注"から)-2015年06月26日
http://yumenoya.seesaa.net/article/421346639.html

このページが良き出合いのキッカケにならんことを…
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《追記6/1》贈呈式での挨拶
●画力対決、会場沸く 手塚治虫文化賞贈呈式-2016年5月29日23時02分:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ5W6G40J5WUCVL026.html
"一ノ関さんは「マンガ家が長距離ランナーなら、編集者はランナーより孤独な伴走者です。この賞は皆さんのおかげです」とあいさつ。"
寡作で鳴らした一ノ関圭さんですから、「編集者はランナーより孤独な伴走者」が実感であって、感謝の言葉なのでしょう。
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《追記6/3》贈呈式の記事
●あずまきよひこ、読者へ「すみません」手塚治虫文化賞の記念イベント&贈呈式-2016/05/30
https://gunosy.com/articles/RPt0g
"壇上では、4名の作家がそれぞれ受賞についてコメント。大賞を受賞した「鼻紙写楽」の一ノ関は、どのようにマンガを作っていくかを小説家や映画監督、演出家などといった言葉で例えながら順を追って説明していく。そして最後には「私の原稿を長年待ち続けてくれた編集者の皆さんの忍耐と辛抱と奔走が、この『鼻紙写楽』を世に送り出してくれました」と感謝を述べた。"

●第20回 2016|手塚治虫文化賞20周年:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/special/tezuka-anniv20th/2016/
「作者に聞く」の全文転載
" 「物語は完結してナンボと思っているので、この作品はまだ途中なのに賞などもらっていいんだろうか、と戸惑いました」

 秋田県出身。東京芸大で油絵を学んでいたが「何かが違う」と感じ、幼い頃から親しんだマンガへ。1975年にビッグコミック賞を得た「らんぷの下」でデビューした。

 前作「茶箱広重」に続き浮世絵師を描く「鼻紙写楽」は、老中田沼意次の失脚から寛政の改革へ移る時代を背景に、上方の実在の絵師如圭を後の写楽と位置づけ、五代目市川団十郎とその娘、息子らが絡む濃密なドラマを展開する。

 「写楽の正体には諸説あるが、絵師の如圭を選んだのは、彼の絵がどう変遷し写楽の完成形へ至るかを絵そのもので見せたいから」

 2001年から09年まで描き継いだが、掲載誌の休刊で中断を余儀なくされた。描き下ろしを加えて昨年出した単行本は「四半世紀ぶりの新刊」と話題になった。卓抜した画力、綿密な考証、キレのいいせりふ、香気豊かな江戸情緒を愛するファンも、この寡作ぶりには泣かされる。

 「いま続きを描いているが、写楽がどのように出現しなぜ突然消えたのか、その謎に到達するまではまだまだ。キーパーソンはもう出してあるんですけど。受賞は、しっかり終わらせないといけないよ、というエールと受け止めます」
(2016年4月27日付、朝日新聞朝刊)
"

「受賞コメント」の全文転載
"小説の行間にひそかな味わいがあるように

 受賞を知らせる電話でまず思ったのが、物語が終わってないのにいいんだろうか、ということでした。この先着地がとんでもなく失敗したら返せといわれるんではないか、と。

 江戸時代、浮世絵師の中で東洲斎写楽は十カ月の作画期間しかわからない謎の絵師とされているが、彼の周囲は有名で饒舌な人間ばかり。言わなくていいことまで喋っているのになぜ誰も写楽を知らないふりするのだろうか。彼が描いた役者はすべて実在の人物で詳細な人間関係がわかっているのになぜ誰も写楽に触れないのだろうか。

 小説の文章の行間にひそかな味わいがあるように、歴史年表の行間にも味な人々が跋扈(ばっこ)していて踊りはねては消えていく。写楽もそのように捉えたら謎も謎でなくなるのではないか。最後まで同時代に生きて写楽の軌跡を体験したら……。

 ふと我に返り、あわてて短く呟いて電話を切ったのでした。「励みといたします。ありがとうございました」
(2016年の贈賞式小冊子から)
"

贈呈式での一ノ関圭さんの写真がアップされていないものかとウロウロしていましたら、
「作者に聞く」「受賞コメント」などの記事が見つかりました。

朝日新聞社が主催する手塚治虫文化賞ですから、
朝日新聞社のネット記事をちゃんとチェックしておく必要があったようです。反省…
posted by yumenoya at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月24日

★戦後の日本分割統治(分割占領)の計画とSF小説(井上ひさし「一分の一」/藤本泉「時界を超えて」)/奇縁/《追記/動画リンク》

2月下旬に中学時代3年間担任だった中田先生に突然の電話をしてから、
多楽島の父母に関わる少ない情報を元に推理するゲームが始まった。
こちらは《北方領土・多楽島》シリーズとして短期連載中。
そして気が付いたら亡き父母についての歴史年表作りとエピソード集めも始まっていた。

何のキーワード検索でこの小説ページがヒットしたのかは不明だが、
井上ひさし「一分の一」という未完の長編があることを知った(3/20頃の話)。
北方領土へのソ連軍上陸に関して色々とネット検索をしていたのは間違いない。
アマゾンの小説「一分の一」の内容紹介を転記すると
"「米英中ソに分割統治されているニッポン」。東北ニッポンの地理学者のサブーシャは、大阪のヤクザ、四国の高校野球監督、美人歌手らとニッポン統一をめざし「日本統一の志士」となる。そして繰り広げられる命がけの統一運動。ついには捕らえられ、裁判にかけられるが……!? 思想、言語、テクニックをユーモアでくるんで綴った、井上ひさし未完の遺作。 "
読みたい積読本(短編集)がたくさん待っているので、長編どころじゃないのだが、
《北方領土・多楽島》と関連が無いわけでもないと思って、
図書館の在庫を確認した数日後、久しぶりに図書館へ(3/24)。
が上巻は貸出中で、やっと2冊セットを借りれたのは4/7(木)。
井上ひさし作品とはかなりのご無沙汰でしたが、
テンポが速くて面白いだけに未完は残念です。

井上ひさし「一分の一」を読みながら頭にあった本は、
「日本分割 NHK「日本の戦後」取材記(上)」
(本書の分割統治案を確認しましたら、小説「一分の一」での統治の国割りとは異なりました)
2009年3月30日のブログ記事「★新着古本リストY25(定額販売)」から転記
" 今回出品した本の中で私が読んだもので一番興味深かったのは、
「日本分割 NHK「日本の戦後」取材記(上)―戦後史のルーツに挑戦した男たちの手記」
NHKでかつてこんなドキュメンタリー番組があったことを全く知りませんでしたけれど、
第二次世界大戦後には、ドイツ、朝鮮、ベトナムという分裂が実際にあっただけに、
戦勝国が日本を分割して統治する可能性やその方法論についてはずっと気になっていました。
その辺の検討内容や日本分割が無かった経過について興味がある方は本書をどうぞ。
私は北海道生まれなので、もしソ連が占領していたら…とついつい考えてきましたけれど、
東北もソ連…なの?、九州・中国は…?、四国は…?東京は共同…?
もし日本の分割統治(占領)が行われていたら、戦後生まれのこの私は生まれていないでしょう。
そんな“もしも”“if”の小説はいくつか読んだけれど、
分裂後の北海道を舞台にした未来ものしか記憶にない。
"

現在ヤフオクに出品中ですので、興味のある方はよろしくお願いします。
◆Y25-50 玉井勇夫ほか 日本分割 NHK「日本の戦後」取材記(上)―戦後史のルーツに挑戦した男たちの手記 学習研究社 1978初、四六判 並 800 小口少ヤケ・腹少シミ、カバー上端&背下端少痛み、定価980円、送料はゆうメールで300円★(主な目次)「日本分割―知られざる占領計画」/「サンルームの二時間―憲法GHQの衝撃」/「酒田紀行―農地改革の軌跡」(酒田の本間家)/「それは晩餐から始まった―財閥解体への道」/「一歩退却二歩前進―ニ・一ゼネスト前夜」/
ヤフオク●日本分割 NHK「日本の戦後」取材記(上)―戦後史のルーツ●
http://page12.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/p391662070
販売価格は800円(税込)ですが、2009年3月30日からまだ売れておりません。
「日本分割―知られざる占領計画」の次に面白かったのは、「酒田紀行―農地改革の軌跡」(酒田の本間家)です。
これを読んだ時、北二十四条街の飲み屋で秋田出身友人との話題にしたら、
「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に」と即返ってきました。
隣り県山形の酒田の本間家のことですが、それだけ有名なんですな。

日本の分割統治計画-ウィキペディアWikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A8%88%E7%94%BB


上で転載したブログ記事で触れた「分裂後の北海道を舞台にした未来もの」は
土俗的な伝奇推理小説で有名な藤本泉の短編集だったはずと思ったものの
作品名を特定できず、ネットをウロウロしていましたら、
やっとそれらしい記事が見つかりました。
●MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群
http://www.h4.dion.ne.jp/~fukuda/kyu/0105hon3.htm
上から二つ目で藤本泉「時界を超えて―東京ベルリンの壁」を紹介


藤本泉「時界を超えて」 2004.9/23発行メルマガの元データより転載
◆M46-93 藤本泉 時界を超えて─東京ベルリンの壁 旺文社文庫 1985初、文庫 並 1000
★(収録内容)巻頭詩「近似値」/「時界を超えて」/「ひきさかれた街」/「クロノプラスティック六○二年」/解説・中島梓


分裂した日本を扱っている短編小説という記憶では当たっていました。
がストーリーは何も憶えておらず、当然販売済みで、気になるのはその内容
明日は衆議院議員補欠選挙の投票日なので、
図書館に寄って、藤本泉「時界を超えて」の他図書館からの取寄せ依頼をする予定。


藤本泉の伝奇推理小説との出合いは、次の本を読んでからです。
小田光雄「文庫、新書の海を泳ぐ」(編書房/2002)
目次から「消えた乱歩賞作家」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784434024467
紀伊國屋書店は目次がしっかりしていますのでリンク

何故この本を読んだかというと、
編書房(編書房は2011年に廃業)サイトの編集雑記が面白かったことから
勝手にリンク集に入れてメールで事後承諾を…
それからメールを何度かやりとりしていましたら、
紡木たくの新作の編集がかなり進んでいた頃に、
編書房さんから二冊の本を贈っていただきました。
その一冊が小田光雄「文庫、新書の海を泳ぐ」で、
その中の「消えた乱歩賞作家」で藤本泉さんの名を初めて知りました。
伝奇小説と言えばまず「半村良」作品ですが、
当時、半村作品も未読は数冊で、この伝奇分野に飢えていました。
しかし推理小説は短編止りで長編はほとんど読む気がありませんでしたけど、
"伝奇"の誘惑に負けて挑戦しましたら、エゾ共和国シリーズは私好みでした。

このプレゼントが無かったら、藤本泉作品にまだ出合っていないような気がしますから、
こういう出合いのきっかけというか縁っていうか不思議ですねぇ。

それにしても中田少年と若き独身時の母、ずっと後に生まれた私と今の中田先生との奇縁ほどの不思議はなかなか無い。
★亡き母の若き日を求めての推理劇は突如開幕した(北方領土・多楽島-1)
http://yumenoya.seesaa.net/article/436243471.html

《追記》
明日の対ソフトバンクの先発は大谷翔平くん、
防御率1.86で第4位なのに勝ち星いまだに0ゼロ、
明日こそは、お願いします…
攻撃と守備で、大谷くんにまずは1勝を…
いくらワクワクしていても、勝たないとね…
大谷ファンは投手としてはまだ開幕していないような変な感じです。
打撃陣も痛く感じているのでしょう、勝たせられないことを!!
だから、私も関係の無い記事に追記で書いてます。
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《4/25追記/動画リンク》
●日本分割占領計画-YouTube (見応えのあるドキュメンタリー&再現ドラマです)
https://www.youtube.com/watch?v=xiZuD7ruSiM
「太平洋戦争後、東西や南北に分割された国がある中、日本はアメリカの一括統治により分-割占領を免れます。しかし、アメリカは開戦当初から米英中ソの4か国による日本の分割-占領計画を検討していました。日本は、なぜ、分割されずに済んだのでしょうか。米国立-公文書館の極秘文書から、日本アジア分割案の誕生から消滅までの過程を描きます。」
posted by yumenoya at 01:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月21日

★ソ連軍上陸後に島を脱出した宿屋の漆塗り朱色お膳セット木箱 その2(北方領土・多楽島-3)

(当初予定していたより文章量が増えたので二分割して掲載)

《親父談/ソ連軍上陸後》
「日本軍の幹部から、ソ連軍は、日本軍の武装解除を終わったら、
島には長くいないという風に聞かされていた。
それでも、ソ連軍が来たら、女子や子供は島にいない方が良いと言われていたので、
根室の方へ、一時疎開のつもりで、島を脱出させた。
ところがソ連軍は、武装解除を終わっても、そのまま駐留してしまったので、
島を出た人々は、それっきり島に戻ることはできなかった。」
(小島敏郎「郵政人の北方領土」平成7年より)

姉の母聞きによると、母も"一時疎開のつもりで"島を脱出したようで、
米・味噌などと当面の衣類しか持ち出していなかったようです。
●姉の母聞き談の島脱出には、養祖母は登場しないので、
辻岡商店の脱出は母たち郵便局グループとは別便と思われる。
(注・母たちは次回の記事で活躍する横田船頭さんの船で島を脱出)

《辻岡商店》
姉の母聞きによると、辻岡商店は宿屋と何かの小売りもしていたらしい。
が本当はどうなのかはよく判らないのと
結構な大きさの木箱が4個ですから、これを持って島を脱出できたのか?
それともその時には、宿屋については廃業していたので、
平内町の家に移動済みだったという可能性も残る。
養祖母は昭和26年に81歳で亡くなっておりますが、
逆算すると終戦時に75歳ですから、引退していてもおかしくない年齢。
昆布を干す前浜に結構な土地(利用権利?)を持っていたようなので、なおさら…
または動かせる財産で一番高いものがお膳セットの木箱…
(土足で上がり、金目の物を探したソ連兵たちを目の当たりにしているだろう)
居ない間にお膳セットがソ連兵に壊されたら困る…
宿屋用に新調したもので大正時代には結構高価な漆器だった?…

《ソ連軍が上陸した時に辻岡商店は営業していたのか?》
辻岡商店の宿道具として今に伝わる「漆塗り朱色お膳セット木箱」に関連し、
ソ連軍が多楽島に上陸した当時、
「辻岡商店」はどうだったのかを知りたいのですがと、
3/6(日曜)中田先生に電話して、当時をご存知そうな方を紹介してもらった。
東狐貢(とうこみつぐ)さんがよろしいのではと電話番号を教えてもらい、
早速電話をしました。
残念ながら、ツジオカという名前はかすかに記憶はあるけど……、
その頃のことをずっと調べているカワタヒロトシさんなら判るかも知れないと、
カワタさんの電話番号を教えていただきました。

多楽島関係の証言動画を視た時のメモを確認しましたら、
「河田弘登志、昭和9年生まれ、終戦時10歳」があったので、
再度視聴してから、多楽島の住居地図で同姓の家を探して確認
●河田弘登志氏 歯舞群島多楽島(元島民の体験談動画)| 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/nettv/experience/ex_tp_kawada/
(Firefoxは再生不可、IE及びChromeは再生可)
●千島連盟のサイトにある居住地図では古別(フルベツ)の「辻岡マス(商店)」
http://www.chishima.or.jp/pdf/map/habomai/09.pdf
(辻岡商店と河田宗四郎宅との距離感を確認)

《終戦時に10歳だった河田弘登志さんに教えていただきした》
(地図の河田宗四郎宅で確認が取れました)
・郵便局は辻岡さんがやっていた。
・辻岡商店は宿泊所と田舎にあるような何でも扱っている雑貨屋を兼ねていた。
・昆布買い付けの商人だけでなく、色んな人が宿を利用していた。
・自力脱出組には結構財産を持ち出した人もいました。
・お菓子などを買いに辻岡商店を利用していたので、ソ連軍が上陸した時にも店は営業していた。

「自力脱出組には結構財産を持ち出した人もいました」ということと、
辻岡商店が懇意な船頭さんの船(宿泊客&雑貨仕入れ)を頼んだとすると、
お膳セット木箱((横/縦/奥行)36cm×100cm×36cm)の4個は積めそうなので、
ソ連軍上陸後に脱出しただろうと推理を確定しました。
(次回に詳しく触れますが、20〜30tクラスの船と想定しての推理)


「宿屋と何かの小売りもしていたらしい」としか判らなかった辻岡商店だったが、
実際に店を利用していた河田弘登志さんの証言で喜んでいました。

その後日、何度も電話して助けてもらっている中田勇先生ですが、
河田弘登志さん(多楽会の副会長兼事務局長/千島歯舞諸島居住者連盟(略称:千島連盟)副理事長)から下記の記念誌を入手して、小生に送っていただきました。
そこに下記の記事が収録されていました。
《辻岡商店についての記事》
●島の商店(「多楽会創立40周年記念誌 たらく」(平成25年1月31日)より)
・商店は日用雑貨が主でちり紙・たわし・ほうき・石けん・駄菓子・酒類といったものでした。
・(6軒の商店の)中でも古別の辻岡商店は1番大きく、他の商店で売っていない物も「辻岡商店まで足を運べば手に入る」と言ったものでした。
(「たらく」収録の「歯舞群島旧島民の生活」からの抜粋
北方領土研究シリーズ その2 1986 北海道根室高校地理研究部)
北海道根室高校地理研究部の皆さん、どうもありがとうございました。
仏壇の間の写真でしか知らない養祖母ですが、商人としては結構頑張っていたようです。


前回紹介した中田先生の「アザラシ皮のカバン」ほどでないにしても、
伝わる現物があるから写真があっての新聞記事が可能で、インパクトがあるぞと。
姉に訊いたら、お膳セットにまつわるエピソードもあるし、
多楽島に生まれた姉がそれらを語れば、絵になるなというイメージでした。

お膳セットについての調査がほぼ固まった時に姉に相談しました。
北海道新聞に北方領土にまつわる記事として売り込みをしたいが、と。
70歳を越えた姉としては、今さら目立つのは嫌で、このままひっそりと…。

宿で使っていたお膳セット木箱を調べ始めた当初のインパクトある目論見が消えましたので、
昔、貸本"夢の屋"についての記事を書いていただいた記者に突如電話して相談しました。
記事としてモノになるかどうか判らないことを取材記者に説明する手間を考えたら、
自分の思っているようにまとめる手間の方が楽だと。
その結果がこうやって自分でブログの記事を書くことでした。


島でそして根室でと、色んな出来事に立ちあってきたお膳セット
いつか、実生活で使わないものは邪魔という時代が来るだろう?
お膳セットについて調査を始めた頃に、ネットでその価値を調べた。
すると旧家や土蔵を壊す時に破棄処分されているのが普通のようです。
絵装飾は無いから高評価は無理でも、破棄処分はしないでせめて古道具屋へ。
ひょっとしたら古道具屋も断るかな…
大正に製造をと感じさせない良い状態と造り?と記憶しているけど、
装飾が無いから、映画やテレビドラマの小道具にはピタリかな?


飛び込んで来た4/13(水)のニュース
●ロシア外相、北方領土「4島すべてが交渉対象になる」-2016年4月13日(水) 7時35分 TBS News(動画付き)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2748512.html
地元の北海道新聞はどう報道したか
●「4島全て交渉対象」 ロシア外相、領土問題で明言-04/12 23:10、04/13 01:37 更新 どうしんウェブ
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/international/international/1-0258602.html
北方領土問題に関心の薄い私ですが、こういうニュースには割と敏感な方でした。
4島を論議の俎上に載せましょうとロシア側が言ったのはかなり画期的なニュース!?
ロシアも望んでいるのですから、具体的な進展を期待しています。

と期待はしても、外交という政治レベルの話は生活の話とはかけ離れています。
明治・大正時代に後に"北方領土"と呼ばれる島に入植した日本人が居て、
そこに生活基盤を築き、子を孫をと育んできたが、突然のソ連軍上陸。
逆に考えると、ソ連政府の命令で島へ家族を呼べと言われた将校等が居た。
その1945年から、もう70年が経っています。
ソ連入植者たちの島生まれの子ども世代に孫が居ても当然。
お互いに翻弄されたロシア人と日本人とが共存する方法の模索……


戦後生まれの私は生活レベルの島にまつわるエピソードを紐解くこととし、
次回は多楽島脱出後に第二子出産のために
「長野へ向かっての決死行?(船で秋田辺りを目指して根室を出港)」を予定
posted by yumenoya at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

★ソ連軍上陸後に島を脱出した宿屋の漆塗り朱色お膳セット木箱 その1/写真六葉(北方領土・多楽島-2)

多楽島にちなむ物で最初に思い浮かべたのは、木箱入りの漆塗り朱色お膳セットだった。

あの木箱を最後に見たのは、兄貴のところの1階の物置のあの部屋だ。
木箱には黒色の達筆で色々書いてあったが、今まで気にしたことがなかったので、
電話で久美子ちゃんに解読を頼んだ。

《◆兄貴&久美子の調べ》
お膳セットの黒筆箱書き(縦書き)
有った数(楷朱膳木箱3個+小木箱1個)

楷朱膳(膳→食偏に善) 五人前
大正八年1月新調
辻岡商店(頭に屋号印)

膳食夜(膳→食偏に善) 二十人前
大正九年1月新調
辻岡商店(頭に屋号印)
(注・久美子ちゃんはどちらも使ったことが無いので、「膳食夜」の中味は不明)

※楷の木/カイノキ(楷樹)とは?(ウィキペディアWikipedia)
・ウルシ科カイノキ属の落葉高木
・孔子と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、学問の聖木とされる。
・材質は堅く、心材は鮮黄色で木目が美しい。優良な家具材であり、船材、杖、碁盤などに用いられる。

姉と電話で色々と話していたら、「嫁入りの時に一箱を持たされた」と判明。
《◆姉談》お膳木箱(5組入り)1箱
(その内訳)
お膳と5種食器(全て漆塗り朱色)
・小さなご飯用お椀(フタ付き)
・大きなお汁用お椀(フタ付き)
・茶碗蒸し的少し縦長お椀(フタ付き)
・大きめの皿(フタ付き)
・丸皿
(子ども達が小さいときには、正月に使っていた)
(「お櫃」セットも一緒に入っていたことが後日、姉の写真で判明)

※兄貴の所と姉のを合わせるとお膳セットは二十人前で、小さな木箱の箱書きとも一致

※「新調」とわざわざ書いてあるのは、既存のお膳セットがあって、
それらが古くなったので「新調」したと解釈もできる。
「大正八年1月新調」とは、もっと以前から宿屋をやっていたとも……

◆4/9(土曜)に姉からの写真6葉と木箱の寸法メモが到着
【箱写真】正面、フタ外し正面、右側面(辻岡ます)、左側面(辻岡商店)
【お膳5点写真】斜め全景、上から全景
【箱寸法】(横/縦/奥行)36cm×100cm×36cm
・姉の写真を確認したら、今までの話に出て来ないお櫃があったので確認
【お櫃セット】(全て朱塗り)お櫃、お櫃入れ、しゃもじ、四角形お盆
お櫃を使ったことが無いので、姉の記憶に欠如していました。
・フタの中央に◯穴、指を入れて上へずらすとフタが外れる仕組み
・両側面の字「楷」の下に横木(箱移動時に持つところ)

(写真を撮った姉によると、木箱の上にダンボール箱があり、確認したら、
お膳セットが一組入っていた。木箱の後に母が追加で持たしてくれたもの。
旭川にはこんなバラのお膳セットが伝わっているはず。
新調する前のお膳セットがあるということは、宿屋開業はもっと古そうだ。)

<物置でフラッシュしている写真なので少し反射光>
◆楷朱膳.jpg
s-楷朱膳.jpg
◆お膳セット.jpg(下の写真の方向を間違えていたので訂正してアップ)
s-スキャンお膳セット.jpg

《姉談/姉の母聞き談》(梅ヶ枝町に住んでいた時代)
(平内町の養祖母が亡くなったのは昭和26年で81歳/姉・小学校2年生)
遺した金銭的財産が無かったので、父の兄さんに借金して葬式を出した。
遺産はお膳セットと鳴海町の小さな土地のみ。

葬式で用意した中華まんじゅう(葬式まんじゅう)が沢山余ったので、
かなりの期間、美味しく食べることができた。
(養祖母とはかなり疎遠だったらしく、子どもの正直な印象記憶)
(私は姉と八つ違いですが、私の子ども時代にも葬式まんじゅうはごちそうでした。
何せサッカリン(人工甘味料)の時代でしたし、子どもは甘いものが好きですから)

●「お葬式と中華まんじゅう」北のお菓子たち:北海道人
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200405/special_08.html

《姉談》
結婚式とかの需要があったようで、お膳セットを借りに来る人が結構いたので、
返却時に届くお礼のご馳走やお菓子は、楽しみで、嬉しかった。

《私》
・根室空襲の被害甚大なので、お膳セットは根室では少し貴重?
・亡くなった養祖母も貸していて、それが今度は相続した家にあるぞと伝播したか?
・養祖母は多楽島でも案外貸出していたかも?
 (多楽島で結婚した人には、この木箱を利用した人が居そう)
・今のような結婚式&披露宴という時代ではないので、
朱塗りお膳セットがあるだけで、祝言の目出度い雰囲気は十分演出できたのではないかな。
・物心ついた子ども時代には、我が家でも元旦には使っていたと記憶
 (朱色のお膳セットを前に正座すると、子どもも一人前になったようなシャキィッとした厳かな気分に…)

★脱出したらしい「宿屋の漆塗り朱色お膳セット木箱」を紹介するだけなら、
これだけでお終いなのだが、気になる点はスッキリさせたい。
"ソ連軍上陸後に島を脱出した?"のウラ取りが欲しいので、「その2」に続く。
posted by yumenoya at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月07日

★西武ウグイス嬢・鈴木さんによる日本ハム・杉谷選手紹介の笑えるアナウンス(口撃)一覧

・2016年も開幕しましたが、西武ドームで恒例となっていた
ウグイス嬢・鈴木さんによる杉谷拳士くん口撃も再開しました。
・色んな珍プレー特集番組よりも笑えます。
・日本ハムのファンで無い方も楽しめます。
●西武ウグイス嬢・鈴木あずささんによる日本ハム・杉谷拳士くん紹介"笑える"アナウンス(口撃/口檄)関連一覧
http://yumenoyabook.web.fc2.com/sugiya-suzuki_kougeki.html

一覧表が無いと過去記事探しで困るのは自分だと気づいたので、一覧ページを新設しました。
同好の士が割と居そうなので、アップいたします。
posted by yumenoya at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | プロ野球 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月05日

★亡き母の若き日を求めての推理劇は突如開幕した(北方領土・多楽島-1)

劇的な遭遇は、気まぐれなネット検索から始まった。
2月20日(土)夜、中学時代の3年間、クラス担任だった中田先生(数学)について、教え子の誰かがブログなどで書いているかも知れないと思って、試しに検索してみた。
すると何と、中田先生は色丹島出身者で北方領土問題の語り部として活動しており、その証言動画も活動記録なども簡単にいくつも見つかりしました。動画の顔と声は記憶にある中田先生で間違いありません。

★根室って、北方領土って何処にあるの??&子ども時代の意識(「北方領土・多楽島」の補足記事1)-4/5 気まぐれ何でもメモ帳(夢の屋/ゆめのや)
http://yumenoya.seesaa.net/article/436241752.html

ビックリしたのは、中田先生が北方領土の出身者だったことです。このネット検索をするまでは、それを全く知らなかったのですから、これは驚きでした。

中学時代、中田先生は正式な家庭訪問ではなくて、個人的に我が家を訪れて、何度も親父と酒を呑み交わしておりました。けど中学生の私には、大人の会話には全く関心がないので、何を語っていたのかは知らないし、親父と歳は離れているのにウマが合うのだろうかと少し不思議には感じていました。もしそこで色丹島が話題になっていれば、中田先生が帰った後に両親は私に教えてくれたはず。なのに私がそれを忘れてしまったのだろうか??という疑問が生じました。

というのは、母は若い時に養祖母に連れられて長野から多楽島へ養女に(親戚も知人もいない根室に/やっと根室に着いたと思ったら船に乗せられた/母は島だとは聞いていなかったようだ)。そしてそこへ父が婿入りし多楽郵便局を、昭和19年には姉が誕生。しかし終戦後にソ連軍が上陸したので、まずは母たちが、最後に父が島を脱出し逃げて来たと。そして父に定職が見つかるまでは大変だったと。これが多楽島に関する私の知識でした。ですから、父母が多楽島で過ごしたのは短いとは云え、もし酒を呑みながら北方領土が話題になっていたら、そのことを私が知らないはずは無いだろうと。

また北方領土問題に関心の薄い私でしたけど、私は母や父のように皆が島を脱出したのだろうとずっと思っていました。
ところが、動画証言によりますと、中田先生の祖父・父母などの家族のように、ソ連軍上陸後2年間その監視の下に島で暮らし、そこから樺太(サハリン)の真岡に移動して収容され、そしてやっと引揚船で函館に着いたと。そんな方がたくさん居たというのは更に驚きでした。
●中田勇さん(北方四島の元島民)|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110556_00000
●中田 勇氏 色丹島色丹村 | 体験談動画 | 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/nettv/experience/ex_douto_nkt/
(私は普段Firefoxを使っているが再生不可も、IEでしたら再生可)

私の無知とは云え、どうして、小学校には郷土を学ぶ時間があったし、歴史の授業だってあったのに、先生方は意識的にそれを避けていたのだろうか!?という疑念。生まれる前の事件とは云え、それを知らないのは恥だし、それに無知なのは情けない事です。とは云え、郷土の歴史の教え方はかなり難しいだろうなとは思うものの、小中高時代に何も教えられず、64歳になってから初めて知って驚いている私がここにおります。

2月21日(日)の深夜は、色丹島のことを描いたアニメ「ジョバンニの島」を初めて観ていて、ロシアの少女が登場したところで鑑賞中止し、中田先生に電話するしかないと決心して就寝。このままでは自分の中でしっくりしないから、中田先生に問いを投げかけるしかない…。


《★中田先生に電話/中学卒業以来49年振り》
ネットで調べた電話番号が同姓同名の可能性もあったが、動画の声と同じだったので、光洋中学校で三年間クラス担任でお世話になったツジオカですと名乗りましたら、ヒデアキ君かい?とすぐに判っていただきました。

決して懐かしくって電話したのではなく、教えていただきたいことがあって突然電話しておりますと。
ネットで検索しましたら、先生の語り部活動と証言動画があって、それで初めて先生が色丹出身と判りましたが、父と母の前で北方領土が話題になったことはあったのでしょうか?と。
「酒を呑みながらお互いに、北方領土とか、色丹、多楽の話になったことは一度も無い」

私は今回証言動画を視たり、ネット記事を読むまで、樺太の真岡を経由してやっと函館に引き揚げてきた方がたくさん居たことを今までずっと知らなかったのですが、生徒の前で"北方領土"について話したことはあったのでしょうか?と。
「語ることがタフー視された時代があった」
「ロシアを刺激しないようにしていた時期があった」

(ここは私の解釈ですが、当時、北方領土問題についての政府の方針はまだ固まっていない。ソ連政府に遠慮した政府・外務省を観ながら、文部省も教育現場で何をどのように教えるかの方針を出せずにいたと。いびつな教育を受けて巣立ったのが私だ。納得はしていないが…このシリーズ記事の最終回で総括する時に少しまとめて書くことにしよう)

これで一応疑問点は氷解しましたし、疑義点の時代背景が判りましたので、私の記憶に強く残っている中田先生の面白い話を二つ披露しました。
「米と異なるがくっ付くと糞(くそ)になる」
「楠正成は籠城した時に、敵に投げるものが無くなり、煮えたぎった糞尿を上から敵兵にかけた」
先生はそんな事あったかなと笑っておられました。
(と数学の授業で脱線するのが楽しみだった先生です)


《★より驚愕する事が判明して、私の好奇心に火が点き、推理ドラマの第一幕は始まった!!》
先生「実はお母さんの若い時に見かけている

「何!?!??!?」と一気に私の生まれるずっと前の出来事にタイムスリップです。

先生「色丹島の小学校へ行くとしたら、通うには遠過ぎて小学校そばに下宿するしかなかった。それで祖父は孫たちの教育のために引退して、根室の鳴海町に住居を構え、そこから学校へ通わせることとした。私は昭和10年から花咲尋常小学校に通った。いつの事かは憶えていないが、祖父に連れられて、平内町の辻岡家へ地代金の支払いに行った。地主のおばさん以外に、女学生っぽい、若い女性が居た。」

(血のつながらない)祖母が亡くなっ時に確かに鳴海町に小さな細長い土地を遺している。でも多楽島に居るはずの祖母と母がどうして根室に居たの!?「女学生っぽい…」ということは結婚前の母かも!?そもそも母は何年に多楽島へ養女に来たの!?
と頭の中はパニック状態です。

まさか先生への電話でこんな驚愕な事が出てくるとは予想だにしていないし、とっさのことだったので何もメモを取っておりませんでした。
実はどういうふうに最後の挨拶をして受話器を置いたのかも記憶にありません。

中田先生の新証言「若い時の母」の裏を取るには、調べることが沢山あります。(私は朝日新聞の記者のように鵜呑みには出来ないので(記憶間違いかも…と一応疑ってかかるタイプです)、外堀を埋める証拠固めをして(裏を取って)、それからやっと自分で納得することができます)

1 長野から母が来たのはいつで、父の婿入り婚はいつ?
2 母が養女にきた時の家族構成と仏間にあった三枚の写真は誰?(血はつながっていない事を知っているものだから、昔から無関心で祖母以外は誰なのか判らない)
3 戦後の鳴海町についての土地勘は記憶にあるので、中田先生の祖父が住んでいたのは、間違いなく祖母の土地なのか?

この調査に並行して、多楽出身者の動画証言は視たいし、アニメ「ジョバンニの島」とそのモデルとなった色丹出身・得能宏さんの動画証言も視たいなどが同時進行しております。

《★住所と住宅の確認》
まず裏取り調査は3の住所から始めました。1と2は私の生まれる前のことですが、3の住所なら私の記憶にある現在の土地につながっていますので、調べるにしても場所をイメージしながら推理が可能です。

その取っ掛かりにあったのは、中田先生の動画証言に出て来た、色丹→根室→根室空襲→色丹(終戦→ソ連軍上陸)→樺太(真岡)→函館と数奇な旅をした祖父の「アザラシ皮のカバン」の中にあった名刺のシーンです。その名刺を拡大したら、住所が判明するかも?
●中田勇さん(北方四島の元島民)|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110556_00000
・名刺で「根室町鳴海町○丁目△番地」と確認
これは現在のGoogle地図と私の記憶にある養祖母の土地と一致しました。

ここで戦前の根室町の住居の地図はないものかとネットを探しましたら、何と見つかりました。
●根室トピックス 根室懐かしふぁおとぐらふ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3922/111.natsukashi.mokuji.html
パート122 昭和11年 根室町住宅地図
パート121 昭和5年 根室町住宅地図

ここにあったのは手書き地図の画像でしたけど、
地図で探す時の一番目安となる「鳴海公園」がありません。
そうか根室空襲で焼け野原となり、戦後その復興の時に整備されたのが「鳴海公園」だったのかと納得。
(こんな事ぐらい小学校の郷土を学ぶ時間に教えてよ!!!)
あるはずの「鳴海公園」が無いし、手書き文字がかすれており、
昭和11年地図で鳴海町○丁目の家を確認できないものだから、
2/27(土曜)中田先生に電話して、電話で道案内してもらいました。

小学校前の通りの角にタバコ屋があります。「そうそう」といった感じで、確認しながら。私が想定していた不鮮明な中田宅は仲通り、ところが中田先生は本通りに面していると。…???…ありました。かすれており、葭治郎が葭「太」郎と誤記していましたが、ちゃんとありました。横の仲通りを本通りと勘違いしておりました。これで、中田先生の祖父の家は戦前の地図で確認できましたので、祖母が地主の土地で暮らしていた事の調査は終了しました。

この電話の最後に、平内町に地主の家があるから確認してご覧、大正にもあったことは手元の地図で確認したと。
その電話後に平内町を確認しましたら、昭和5年にも昭和11年にも「辻岡(マス)」ありました。

この時には、色んな動画証言を既に視ておりましたので、オホーツク海側は流氷で閉ざされることから、越冬用の食料をまとめて揃えて島で冬を越した人がおり、また根室の別宅で越冬する人も居たことを承知しておりましたので、平内町に家があっても何ら不思議で無い。養祖母には根室にも別宅があり、多楽島へ来た養女の母が養祖母と一緒に根室に居ても何ら不思議でない事だし、地代金の集金もあったかも…。

《★それは本当に私の母なのか!?!?》
そして残る疑念は、中田先生の「女学生っぽい、若い女性」は本当に、私の母なのだろうか?です。仏壇の間にあった若い女性の可能性もある??と気になっていたが…

2/28(土曜)、鳴海町の裏が取れたので兄貴に電話し、中田先生との電話で母にまつわる証言があって、その確認のためには、仏壇の間に掲げてあった三人の名前と亡くなったのは何年かが必要だと。ひょっとしたら、写真の裏には享年なんかの情報が書いているかもと。久美ちゃん(兄貴の嫁さんだけど、私の誕生よりは少し後なので、ずっと久美ちゃんと呼んでおります)から、ホコリまみれになったけど、裏には何も書いていないと電話連絡。そして追伸電話、お母さんの三人メモが出てきたと。

・「きみ」昭和10年8/27、16歳死亡 (母が養女に入る前に亡くなっていたマスの唯一の孫である長女/結核/母の改名の由来)
・「源太郎」、昭和18年1/15、54歳死亡 (養父/結核/養父死亡の直後に父は婿入り婚)
・「マス」昭和26年11/9、81歳死亡 (養祖母/母を長野から連れて来た人)
(「みさを」養母、戦後に亡くなった妹の子どもたちを育てるため根室から富山へ)

(母は亡くなる前に、遺産についての遺言をちゃんと書いており、葬式で戸惑わないように、我が家の家紋の印とその名前まで記して残していました。そんなしっかり者のオフクロでしたから、写真の三人についてメモがあった事には、さすがオフクロだと、64歳の私も感服しました。)

中田先生の花咲尋常小学校入学は昭和10年(祖父宅)
辻岡きみが結核で亡くなったのは昭和10年8/27で16歳
母が長野から養女に来たのは昭和15年夏で24歳の時
父が婿入りで結婚したのは昭和18年で母26歳の時
(これらを確認するため戸籍を取寄せて確認したのは3/5)

戦前の結核については全く無知だか、他人の前に出てくるのは変だと考えると「きみ」説は消える。
もし「きみ」が地主宅に居たとしたも、まさに女学生年齢の「きみ」を見て、
中田先生の「女学生っぽい、若い女性」という表現になるだろうか?
大人なんだけど、女学生っぽい若さの(キレイな)女性、をそう表現したと…。

戸籍が届く前、こんな推理をしていた時、姉に電話相談したところ、
小学1年生が一度だけ見た(会った)人を憶えているはずがない。
小学校上級生や中学生ならともかくも…。
ということで、「女学生っぽい、若い女性」は母だでほぼ確定。

次は、結婚前の母かどうか!?
母がいつから郵便局の職員だったかはその後の調査でも不明だが、
昭和18年2月に養父が亡くなり、即父と結婚してからは、
郵便局の仕事があるし、その年末には姉が生まれているので、
祖母と一緒に根室へ出て来たとは考えづらい。
また結婚すると髪型や服装も少し変わったのでは、と思うし、
さらに「女学生っぽい、若い女性」という印象から、未婚の女性っぽい。
ということで、私の望み通り「結婚前の母」で、
中田先生が母を見かけたのは昭和15〜17年の間で、
中田少年は今の小学6年生〜中学2年生だったと推理結果は確定しました。

この調査推理に併行して、次回に取り上げ予定の「多楽島を脱出した宿屋の漆塗りお膳セット4木箱(二十人前)」などの調査・推理を進めておりましたので、中田先生には度々電話をかけていました。途中からは、奥様が出ると「毎度お騒がせのツジオカです」の挨拶が定番となっておりました。

「結婚前の母」で間違いないと推理の結論が出た後に、
別の件で電話をしました時、先生に確認しましたら、
担当クラスの名簿に「辻岡」という名を見たときに、
あの女性の息子さんかな!?と思ったそうです。
最初の家庭訪問で「母」を見た時に「この人だ」と…
父と呑みながら「お母さんのしてくれるお酌は格別」だったそうです。


母が子どもの頃には、"ガイジン(外人)"と結構いじめられたそうです。
母の若い時の写真のことは何も記憶にないけれど、
息子が言うのも何ですけど、色白で結構キレイだったろうと思います。
その意味では、中田少年に見る目が合った、審美眼を持っていたと。
もし、このエピソードが根室時代に母の前で披露されていたら、
「あの時一緒に来た少年が…、なんと今は息子の担任に!!」と母はとても喜んだでしょう。

ところが運命の采配は、1940〜2年の出来事を2016年まで75年間も秘匿に…
母が亡くなったのは1996年2/14(平成8年)
私が中田先生に電話したのは2016年2/22(卒業以来だと49年振りの会話)
奇しくも同じ2月で母の死からちょうど20年
中田先生との不思議な縁(えにし)
それは1931年(昭和6年)に中田先生の祖父が養祖母の土地を借りたことで始まっていた。
運命の女神の傍には時計役目も兼ねた脚本家が付いているのか!?
まさに「事実は小説より奇なり」です。

昭和15年にたまたま多楽島に養女としてやって来ることになった母、ようやく根室に到着したと思ったら船に乗せられて驚いた母(養女先が島とは聞かされていなかった/本籍地は根室町)。そして中田少年の前に現れた、結婚する前の若き母、それが母にまつわる北海道最古の記憶証言です。

★中田先生の少年時代と突如リンクして1940年頃にタイムスリップ!!(不思議な縁のリンク年表)
nakata-link.JPG
1●2016年2/22(49年振り) 中田先生に電話(現代)

2●1964年4月(昭和39年) 私の中学校入学(52年前)

3●1940年7月(昭和15年) 長野から母は多楽島へ養女に(24歳)
中学時代のことで疑問があって電話したつもりが、
さらに20年以上も遠い過去へ突如吹っ飛ばされていました!?!?!?
の図です。


《★北方領土・多楽島-1の最後に》
宮城大学の学生13名に引率2名を加えた15名での現地視察実施があった時の報告書にあった中田勇さん講話の言葉を紹介します。
●平成25年度「北方領土青少年現地視察事業」を実施しました
http://hoppoumiyagi.shakunage.net/2013gentishisatsu.htm
http://hoppoumiyagi.shakunage.net/2013jigyouhoukoku03.pdf
「・私はもう68年間我慢をしてきました。68年間ずっとマラソンを走ってきました。ゴールに着けるかと思いましたが,どうもたどり着けそうにありません。
・ここからは,マラソンから駅伝に切り換え,たすきを渡さなければならなくなりました。誰がたすきを受け取るのか,それは皆さんです。」

私は戦後生まれだし、父母が島生まれでも島育ちでも無く、姉には幼過ぎて島の記憶はゼロなので、私には北方領土問題にあまり強い関心は持てません。
が不思議な縁(えにし)ですから、中田先生の「誰がたすきを受け取るのか」の「たすき」に手をかけたつもりで、私の関心がある亡き父母にまつわるエピソードなどを記事にすることで、北方領土問題とソ連軍島上陸後に触れていきたいと思います。
posted by yumenoya at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

★根室って、北方領土って何処にあるの??&子ども時代の意識(「北方領土・多楽島」の補足記事1)

ここは、本編「北方領土・多楽島」を補足するためのページ1です。
アップ済みその本編は、近々追っかけアップの予定。
★亡き母の若き日を求めての推理劇は突如開幕した(北方領土・多楽島-1)-気まぐれ何でもメモ帳(夢の屋/ゆめのや)4/5
http://yumenoya.seesaa.net/article/436243471.html

●北方領土の位置と面積 | 独立行政法人 北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/gakushu/outline/islands/island1/

hoppouryodo-map.JPG
根室市を知らなくとも、今でも恒例なんだろうと思いますけど、
テレビ番組で「元旦の初日の出」と言えば必ず登場したのが、
日本最東端の納沙布岬からの少しずつ明るくなっていく風景でした。
そこから一番近い北方領土が、3.7kmの距離にある歯舞(はばまい)群島の貝殻島です。
歯舞群島の一番奥が多楽島で、更に奥に続く大きな島が色丹島。
色丹(シコタン)はアニメ「ジョバンニの島」の主舞台になったところです。

根室市より知床(しれとこ)の方が有名かもしれませんが、
根室半島と知床半島の間にある大きな島がクナシリ(国後島)です。
Google earth-a.JPG
Google earthでもっと上から見ると、千島列島全景と樺太(サハリン)もカムチャッカ半島も
Google earth-b.JPG
更に上空へで、アリューシャン列島とアラスカも
Google earth-c.JPG
ここに位置した北方領土の産業は豊かな漁場を背景とした漁業でした。
ですから、ソ連のちにロシアの監視船による日本漁船拿捕事件がかなり起きています。


子ども時代に戻ると、
ガス(濃霧)がかかっていない限り根室市内から北方向(海)に眼を向けると、
港と弁天島の風景の上に、奥に、地平線上に見えるのは、
そこにいつもドーンと鎮座していたのがクナシリ(国後島)でありその山々でした。

子どもにとってはロスケ(ソ連)に盗られた島というイメージだけで、
特別な意識を持つことは無いまま、風景の中に溶け込んでしまい、
やがてますます意識する対象からは消えていった。
授業が終わり花咲小学校の正門を出て右に折れると毎日この風景を見ていました。
また中学校の帰り道の高台で眼に飛び込んで来るのもこの海風景だったと記憶。
秋になると毎日、港の岸壁で氷下魚(コマイ)釣りかチカ釣りをしていましたが、気になるのは竿の引きのみ。
(冬は流氷で港が閉ざされるので釣りは不可に)
そして子どもたちの話題にクナシリ(国後島)が登場することは無いまま…
肉眼で見えない島々のことは当然なおさら……
(子ども時代のこんな意識については後日の本編で触れる予定)


「北方領土」「島を返せ」「還れ島」といった看板・垂れ幕などは当時の記憶の中に無いので、それらが登場したのは、私が根室を離れてからだと思う。ようやく政府の方針が固まってからと……
posted by yumenoya at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 北方領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする